「日本らしいサッカー」の源流?謎多き留学生、チョウディンの”キセキ”
「日本らしいサッカー」という夢
「日本らしいサッカー」とは何か?
どれだけ多くの人がこの問いの答えを出そうとしたのだろう。
プロもアマも、監督も選手もファンも、誰もがこの問いの答えについて考え、自分なりの言葉で表現をしようとしたはずだ。
しかし、それが一つとなったためしがない。
多くの人が追い求めれば追い求めるほど、その姿はボンヤリとしてきてついには見えなくなっていく。
いっそのこと、そんなものはないと開き直るのが正しい姿なのかもしれない。
多様化した戦術、人材のグローバル化、科学的トレーニングの進歩などを踏まえれば、国単位で「らしさ」などを求めることは時代錯誤であることは明白のはずだ。
しかし、そんなことは百も承知で、人々はそれを追い求める。誰もが「日本らしいサッカー」の夢を見る。
「日本らしいサッカー」=パスサッカー?
抽象的すぎる「日本らしいサッカーとは何か?」という質問を、「AとBどちらが日本らしいサッカーか?」という質問に変えてみるとどうだろう。
A: ロングパスを放り込むサッカー
B: ショートパスを繋ぐサッカー
当然Bのパスサッカーを選ぶ人が大半だろう。
細かい戦術面で意見の相違はあれど、「日本らしいサッカー」はパスサッカーであることに関して、強く反対する人は少ないと思われる。
パスサッカーに日本人の体格や気質を絡めて語られることもある。
曰く「フィジカルに恵まれない日本人が、屈強な欧米人たちに立ち向かうにはパスサッカーしかないのである」と。
曰く「日本人は器用で勤勉であるから、全員が協力しあうパスサッカーに向いている」と。
謎の留学生チョウディン
では、この日本人らしいパスサッカーを広めた人は一体誰なのか。
断定することは難しいが、歴史を遡っていくと一人の英国領ビルマ人の留学生に行き着く。その人の名はウ・チョーディン(KYAW DIN)という。
チョウディンの幼少期、少年期、青年期の説明として残っているのは以下の一文だけである。
1900年、英国統治下のビルマで生まれた。
以上
彼がどのような家に生まれ、どのような教育を受け、どのような暮らしをしてきたのか、定かではない。
もっと言えばチョウ・ディンに関して、生まれ故郷のビルマにおける情報はほとんど伝わっていない。
彼のことが語られるのは、異国の地、日本での数年間の留学期間に限られる。
チョウディンは1920年ごろ、日本にやってきた。東京高等工業学校、今の東京工業大学の留学生であり、繊維工学を修めるためだったという。
当時の日本の主要産業は繊維工業であり、その高い技術を習得するという使命を携えていたのかもしれない。
チョウディンは学生であると同時に、走り高跳びを専門としたアスリートでもあった。
ある日、練習に訪れた早稲田のグラウンドで、早稲田大学のサッカー部の練習を見かける。
夜明けを迎えたばかりの日本サッカーは、このときチョウディンと出会った。そして、日本サッカーの歴史はゆっくりとだが大きく動き出していくこととなる。
(すでに東京高等師範学校でサッカーの指導を行っていたらしいが、指導者として本格的に活躍をし始めるのは早稲田での出会いがきっかけであることから、こちらを起点にしています)
大正時代の日本とビルマのサッカー
当時の日本サッカーに状況について確認しておきたい。
1917年に行われた第3回極東選手権大会の試合結果は以下のとおりである。
日本 0ー4 中国
日本 2ー15 フィリピン
惨敗である。
これが当時の日本のサッカーの実力を物語っている。
しかし、この極東大会あたりからサッカーの普及は進み、サッカー人口は増え始めていった。熱意はあった。が、技術はともなわなかった。
数十年前まで、日本中の誰もが知らなかった競技である。場所も用具も人も情報も足りない。適切な指導をする人材などいなかった。
手探りではじめ、だれかの見よう見まねを、口伝えもしくは文字で伝えていく。ヘディングをどうやってやるのかすらよくわかっていなかった。
一方でチョウディンの故郷ビルマはどうだったのか。
この時の試合記録については調べられなかったが、当時のビルマの状況を考えると日本とは大きく異なるものだったことは想像できる。
ビルマは英国の統治下にあった。英国は言わずもがなサッカーの母国である。統治下において、多くの英国人が入植した。
本場のサッカーのプレーを間近で見られる環境にあった。
つまりは、ビルマはこの当時サッカー先進国だったのである。
チョウディンがどのようにサッカーを知り、サッカーを習っていたのかはわからない。
しかし、サッカー先進国の中で育った彼は、日本人と比べてはるかに知識も経験もあったことは間違いないだろう。
チョウディンが伝えた「パスサッカー」
そんなチョウディンの目に日本のサッカーはどのように映ったのだろう。
本場のサッカーを見たこともない人たちがやるサッカーを、チョウディンはどう思ったのだろう。
もしかすると、日本人が興じているサッカーは、彼にとっては「なにやらサッカーの”ようなもの”をやっている」という程度に見えたのかもしれない。
そんなレベルの低いサッカーを見て、いても立ってもいられず声をかけたのか、それとも、サッカー先進国ビルマからやってきた留学生がいるという噂を聞いて日本人側から声をかけたのか。
その経緯はよくわからないが、チョウディンはその早稲田のグラウンドでの出会いをきっかけに、サッカーの指導者と繊維工学を学ぶ学生という二足の草鞋を履くことになる。
チョウディンは早稲田高等学院のサッカー部の指導をするようになった。
インサイドキック、アウトサイドキック、フロントキック、トーキックなどといったボールの蹴り方にも種類があることなどを教えたという。
今では当然のように教わることであるが、当時の日本にはその技術を教えるものはいなかった。ボールの蹴り方といえば「思いっきり蹴れ」という抽象的すぎる指導しかなかった。
チョウディンは理系の学生でもあったので、その指導は理路整然としており、キックが腰を中心にした円運動によるという力学の話を通じて技術を教えていたという。
そして、彼が教えた重要な技術の一つが、「ショートパスをつなぐサッカー」である。
そう。冒頭の「日本らしいサッカー」の二択のBである。その原点は、このビルマ人留学生の教えから始まった。
当時の日本におけるサッカーの戦術は、ロングボールを前線に送り込む、いわゆる「キック・アンド・ラッシュ」が主流だった。
イングランドの伝統的なサッカースタイルである。
そんななか、チョウディンはボールを遠くではなく近くに、高く蹴らずに低く速いパスを送ることで、より有利にゲームを進めることができることを教えた。
これはチョウディンが日本に合わせて独自に見つけ出した戦術というよりも、スコットランドの主流な戦術を持ち込んだものだと考えられている。
英国占領下のビルマではスコットランド人が中心となって統治をしていた。そのため、チョウディンも祖国でスコットランド流のサッカーを学んでいる可能性が高い。
スコットランドではイングランドの「キック・アンド・ラッシュ」に対抗するため、ショートパスで組み立てるサッカーを考案し、それを洗練させていた。
「日本らしいサッカー」の源流はビルマを経由してスコットランドに見出すことができるのかもしれない。
指導者チョウディンの活躍
さて、チョウディンの話に戻る。
早稲田高等学院での彼の指導の効果はすぐさま現れ、早稲田高等学院は現在のインターハイに相当する全国高等学校ア式蹴球大会で2連覇を成し遂げる。
無名の私立学校の躍進にサッカー界は衝撃を受けた。その躍進の陰に一人のビルマ人留学生あり、という噂はすぐに広まり、指導を依頼する声が全国からチョウディンのもとに届くようになる。
1923年にチョウディンは『How to Play Association Football』という書籍を英文で執筆した。これは写真や図を使用したサッカーの本格的な教則本であり、これまで日本には存在しなかった本だった。これが様々な協力者により日本語に翻訳され出版される。
そして、1923年9月1日。
推定マグニチュード7。9の地震が関東一円を襲った。関東大震災である。
この巨大地震により蔵前にあった東京高等工業学校の校舎は壊滅した。チョウディンは学び舎を失った。
二足の草鞋の片方が履けなくなった彼は、もう片方の草鞋に全体重を預けることを決意する。サッカー指導者として全国を巡ることにしたのである。
面白いエピソードが残されている。
神戸でサッカーの指導をしに来たチョウディンが、休日、宝塚歌劇の観劇に誘われた。
その帰り、宝塚のグラウンドにボールを持った若者が集まっていた。チョウディンの指導を受けようと集まった神戸一中の学生たちである。
それを見たチョウディンは、半日だけサッカーの指導を行うことにした。その指導により、神戸一中は見違えるほど強くなり、強豪校の御影師範学校を破るに至る。
休日の不意打ちのように指導を求める神戸一中、休日にそれを受け入れてしまうチョウディン、わずか半日の指導で一つのチームを強豪に変えてしまう指導力と学生の吸収力…
何から何まで規格外である。
そんな風にしてチョウディンは数々の若者にサッカーの指導を行った。
サッカー不毛の地に、種をまき水をやった。
若いエネルギーと熱意に触れて、日本サッカーは力強い根を張った。
あとはどんな花を咲かせるのか。
チョウディンと日本サッカーのその後
1924年、チョウディンはビルマに帰国した。
せっせとサッカーを普及させたが、それが花開くところには、日本にはいなかった。
前述の通り、日本から離れたあとのチョウディンの消息は不明のままである。
チョウディンの帰国後のビルマは激動の時代に突入した。
帝国主義、軍国主義、共産主義・・・さまざまなことが起こった。
残されていたチョウディンに関する記録も、この時代の濁流に飲まれて消えていったのかもしれない。
1936年ベルリンオリンピック。
日本サッカーにおけるターニングポイントがやってくる。
サッカー日本代表は優勝候補とよばれていたスウェーデン代表と対戦し、前半0-2からの大逆転で3-2のスコアで勝利した。
弱小チームの逆転劇に世界が驚き、この試合は「ベルリンの奇跡」とよばれることとなる。
日本のサッカーが世界と渡り合えることを証明した試合となった。
これもチョウディンの功績のひとつと言えるだろう。
このチームの監督である鈴木重義とコーチの竹腰重丸はともに、チョウディンから直接指導を受けた直弟子である。
チョウディンの稀有な人生に思いをはせる
雑なまとめの文を考えてみる。
“東京工業大学の前身となる学校に工学を学びに来たビルマ人の留学生が、高跳びの練習中にサッカー部と出会い、サッカーの指導をしたら、そのチームが二連覇して、日本初の本格的なサッカーを指導書を書いて、関東大震災で校舎が倒壊して授業が休みになったから、全国でサッカーの指導をして、その弟子と孫弟子がベルリンで奇跡を起こした。”
こんなことになる。
初めて聞いた人は、頭に浮かんだ単語を無理やりつなげて文章を作る言葉遊びの結果作られた文章と思うかもしれない。
まず一文目。正直、東工大とサッカーは相性がいいように思えない。優秀な理系学生が集まる今の東工大とうまくリンクしない。
それになぜそんな工学を学ぶ学生が高跳びの練習を?
それに、サッカーの伝道者なのに走り高跳びの選手?
震災のあとに全国を巡るって、なにかコネもカネも必要そうなのに、なぜ?どうやって?
いろいろなクエスチョンマークが浮かぶけれど、これが事実なのだ。だから、人生というのは面白い。
チョウディンはその功績から2007年、日本サッカーの功労者として日本サッカー殿堂入りを果たした。
日本サッカー協会は、チョウディン本人や親族の情報を募ったが、やはり彼の行方について知るものは現れなかった。
チョウディンを語るとき、「日本サッカーの恩人」の姿が描かれる。サッカーに関する知見の深さ、先進的な指導法、そしてその功績により日本サッカーは一歩も二歩も前に進むことができたのだ、と。
その側面は重要であるし、なにより史実ベースで語れるところである。
ただ、一人の若者の人生として、チョウディンの軌跡を見てみたい。
ひとりの若者の心情に想いを馳せてみたい。
20代前半という若さと気力がみなぎる時期に、チョウディンは日本にいた。
とても下手なサッカーをする若者を見た。
しばらくすると、彼を師と慕う日本の若者が集まってきた。
異国の地で体験したことのない災禍に遭った。学び舎がなくなった。
失意の中、一時はサッカーの指導者としての人生を歩むことになった。
ときに、ボールを持った人に待ち伏せられたこともあった。
そのときどきの彼の心中はどうだったのだろう。
なぜ異国の地の未熟な選手たちに、熱心にサッカーを教えていたのだろう?
単純な喜びか、別の使命感か、それとも。
すべては私たちの想像力に頼るしかないが、このあまりに稀有な人生を送った人の心を読むことはあまりにも難しい。
彼のその後は今では誰も知らない。
サッカーへの情熱に変わりはなかったであろうか?できれば変わらないでいてほしい。
祖国でもボールを蹴っていたのだろうか?
ボールを蹴るとき、彼はあの時の異国での青春の日々を思い出したりはしなかったのだろうか?
彼の弟子たち、孫弟子たち、そしてその弟子たちが日本サッカーを大きく育てていき、やがてアジア屈指の強豪となる姿をどこかで見ていたのだろうか?
そして、彼もまた「日本らしいサッカー」の夢を見ていたのだろうか?