広船山吹

色々と調べた結果、調べること、書くことが大事だと気づきました。

広船山吹

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最近の記事

『ドラえもんのび太の南海大冒険』は革命ではなかったか

ドラえもん博士になりたかった。 少なくとも小学校のなかで一番詳しい人間でありたかった。 一人で留守番をするときは大晦日のドラえもん3時間スペシャルや映画のテレビ放送の録画を見て過ごしていた。 小学生高学年、中学生になるあたりに「ドラえもんが好きな自分」が気持ち悪い人間に思えてきて、ドラえもん博士になる夢を自ら遠ざけるようになり、声優陣製作陣が一新され、大山のぶ代ドラえもんが消滅、水田わさびドラえもんが誕生したことで、私とドラえもんとの隔絶は決定的になった。 結局、てんとう

    • 大谷翔平の「ヘルメット投げ捨てて走る」アクションって、映画や漫画とかのフィクションも含めて、他にやったことある人いるかな? 今までにない新たな「野球のカッコいいアクション」を作り出していたとしたら、また大谷はフィクションを超えたのかもしれない。

      • 比嘉の投球に泣いてしまった

        内山荘真の打球がレフトスタンドに吸い込まれたときも、比嘉幹貴はブルペンにいた。 その日、彼は何度もブルペンのマウンドに出ては肩を作っていた。 それは、勝ちパターンではない中継ぎ投手の宿命である。特に比嘉のようなサイドスロー投手には、ワンポイントリリーフの仕事がイニングの途中に舞い込んでくることもある。 ピンチの芽を摘む、その仕事は「火消し」と称される。 日本シリーズの初戦。火消しの仕事は突然やってきた。 先発のエース山本が左脇腹の違和感を訴え、5回途中でマウンドを降りた

        • 『ドラえもん のび太のドラビアンナイト』を今見てる

          現在、Amozonプライムビデオでは「映画ドラえもん」シリーズの全作品が配信されている。 ずらっと並んだそのラインナップをぼんやりと見ていて、小学生の時に親に近所のレンタルビデオ店に連れて行ってもらったころのことを思い出した。 その時は、映画ドラえもんは20作くらいがビデオとして出ていて、ドラえもん博士になりたかった自分は、それを全て見てやろうと思っていた。 ただ、いつ行っても貸出中の作品があったりして、計画はいつの間にやら頓挫してしまった。小学年高学年になるころには自分もド

        • 『ドラえもんのび太の南海大冒険』は革命ではなかったか

        • 大谷翔平の「ヘルメット投げ捨てて走る」アクションって、映画や漫画とかのフィクションも含めて、他にやったことある人いるかな? 今までにない新たな「野球のカッコいいアクション」を作り出していたとしたら、また大谷はフィクションを超えたのかもしれない。

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          ケツメイシの「また」と「まだ」

          おそらく世の中がまだ「平成」というのっぺりとした響きに慣れきってはいなかったであろう、平成のはじめの頃に私は生まれた。 平成初期の象徴として扱われることが多いバブル経済も、その後のバブル崩壊も記憶にはない。 東西ドイツ統一もソ連崩壊も私の誕生日の前後1年くらいの範囲に収まる時に起きていて、当然、東西冷戦のピリつきを経験していない。 政治やら国際情勢やらがおぼろげながら理解できるようになったときには、自民党はぶっ壊されていて、アメリカはイラクに攻め込んでいた。 デジタルネ

          ケツメイシの「また」と「まだ」

          漫才衣装論③ 錦鯉 色の対比と分断と融合と

          前回は銀シャリの衣装の流れから、漫才における揃いの衣装についての考えを書きました。 そのなかで書いたように、揃いの衣装というのは漫才師の典型的イメージと合致する衣装のわりに、M-1の決勝までいっている例は少ないです。 ざっと見てみた感じだと、服のデザインと色が揃っていたという印象が強いのは、おぎやはぎ、ザ・プラン9、ハリセンボン、ジャルジャル、スリムクラブ、銀シャリ、オズワルド、ロングコートダディ、くらいです。 数えてみると、思っていたよりいましたけど、割合として見ると

          漫才衣装論③ 錦鯉 色の対比と分断と融合と

          漫才衣装論② 銀シャリ 揃いの衣装の魅力

          漫才の衣装について考える前段を書いてみました。 ここからは具体的な例を挙げながら、漫才の衣装についてアレコレ考えたことを書いてみます。 ただのお笑いファンというだけで、漫才師でもなければ、ファッションの専門家でもないので、見当違いなものも多いかと思いますが、悪しからず。 M-1戦士たちの衣装わかりやすく、M-1決勝進出者たちのM-1決勝での衣装を例にしてみました。多くの人が見ているというのもありますし、公式に公開されている画像も多いですし。 あと、M-1は大舞台ですか

          漫才衣装論② 銀シャリ 揃いの衣装の魅力

          漫才衣装論① なぜ衣装が重要か。

          ビートたけし作詞作曲の『浅草キッド』では、コンビを組んだ2人が「同じ背広」を買い、「同じ形のちょうたい」を作ったが、「同じ靴」は買えず、それをネタにしていたというエピソードが描かれている。 同じ衣装を着るということは漫才コンビの証だったわけであり、それを買うということで二人はコンビになったということである。 このように漫才師と衣装は切っても切り離せない関係にある。 衣装がなぜ重要なのか。 色々とこねくり回して、「フィジカル」という言葉を使ったりしながら、漫才の衣装につ

          漫才衣装論① なぜ衣装が重要か。

          漫才における「フィジカル」   漫才衣装考察のすすめ

          漫才=自由 漫才論争というものがあった。 M-1グランプリ2020の王者、マヂカルラブリーの漫才は漫才と呼べるものなのか。という論争である。 あれは紛れもなく漫才だった、と思う。 漫才は自由なものだ。 掛け合いで笑わせようが、動きで笑わせようが、歌で笑わせようが構わない。 ボケツッコミだって、あくまでそれがあった方が笑わせやすい、というだけで、絶対になければならないものではない。 小道具持ち込みのアリナシは意見がわかれるところで、個人的にも小道具を使う漫才は「ん

          漫才における「フィジカル」   漫才衣装考察のすすめ

          サウナ懺悔。ととのわなかったという罪と赦し

          あの日のことを、今でも思い出すんです。 コンビニで買い物をしている時でも、満員電車に詰め込まれている時でも、家で食事をしている時でも、なんのきっかけもなく、ふと、思い出すんです。 その、ふと、の瞬間、あの日の光景が頭の中で立ち上ってきて、それが際限なく広がっていくのです。 なんと言えばいいのでしょう。 格好つけた言い方をすれば、私の脳があの日に支配される、とでも言いますか。 そして、長い支配の後、私は頭のなかで、こう叫ぶんです。 なんてことをしてしまったのだ!

          サウナ懺悔。ととのわなかったという罪と赦し

          「日本らしいサッカー」の源流?謎多き留学生、チョウディンの”キセキ”

          「日本らしいサッカー」という夢「日本らしいサッカー」とは何か? どれだけ多くの人がこの問いの答えを出そうとしたのだろう。 プロもアマも、監督も選手もファンも、誰もがこの問いの答えについて考え、自分なりの言葉で表現をしようとしたはずだ。 しかし、それが一つとなったためしがない。 多くの人が追い求めれば追い求めるほど、その姿はボンヤリとしてきてついには見えなくなっていく。 いっそのこと、そんなものはないと開き直るのが正しい姿なのかもしれない。 多様化した戦術、人材のグローバル化

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