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強者と弱者のロジック

サラ・カイリイ 詩集『ヴァージン・キラー』(書肆侃侃房)
 恣意的かと思うほど女性性を豊かに描いた詩群によって構成されている。巨視的に視点を移せば、社会的・生物学的な「性」をめぐる偏向をもって露悪的で特異だ。「セックスのフィルターを通して」(『水中花』から)の詩句にみられるように、性愛を多く描いた本書の詩群は低位置からの視線や身体感覚を濾過した表現が目をひくが、あくまでもそれらは「フィルター」という体感的な感覚と触感を媒介として対象である男性や他者と向きあっている。かつて白石かずこが登場したとき、あけすけな性愛表現は詩壇の長老に拒絶された。高尚を是とする日本の詩的土壌にふさわしくないとの反応があったせいだ。ジェンダー問題は、現代においても世界的に未解決なほど深刻である。女性性を仔細にみれば「鋭敏な感覚」「多情」「饒舌」「執着心」等に析出できるだろう。作品化された恋愛的物語性に包まれたこれらの要素によって、それぞれの詩篇は色づけられ肉づけられてゆく。たとえば〈あたしたちは天使として世の男に与えられ/報酬を得る生きものだった〉(『天使』から)と、社会の男女差を打擲して痛烈な箇所があり、詩篇『南新地――今泉』ではソープ街にある店内とそこで働く女性の心情を描写するなど、風俗を通して社会性をもった詩集の一面もある。生物学的視線は医学を経由して社会の諸問題と結びつきやすいものだ。「感覚」についていえば、〈新しい生き方を感じられる気がする(中略)携帯のバイブレーションが空気をゆする〉(『甘い骨』から)と、耳目の見聞きやロジックの思念ではなく、体感の「鋭敏な感覚」によって言語表現されている。「多情」でいえば、『natural woman』の詩作品、男のペニスを切りとる阿部定らしき女性の心情に憑依する作品に結晶化される。言語そのものでもある「饒舌」は力や強さを持っている。「饒舌」は、弱々しい者たちを「へなちょこ」とか「ヘッポコ」と言い負かしてしまう強者のロジックを持つ者の側に立っている。あえて偏見をいえば、詩は弱者や病者の側にあると思っていた。萩原朔太郎から始まった現代詩は、その始祖の詩的世界の繊細で病弱なものだったために現代まで抜け出せないままできた。そのような詩的土壌からみれば、本書の詩群はマイノリティであり、超脱表現だとみえるだろうし、表層表現で勝負しているように感じてしまうのは、「饒舌」が雲霞となって表層を覆っているからに違いない。表現したいものと作品化されたものとの間に情熱の齟齬も感じてしまう。詩篇『奇妙な果実』のような素晴らしい詩が書ける力量を認めながら全面的に許容できないのは、生物学的性愛表現の限界性が感じられるからではないだろうか。だがこのようにもいえる、音楽の歌詞から詩の世界に入ったと「あとがき」にあるように、女性性という「饒舌」な詩群は、ラップ音楽と同時代の現代詩として、アクチュアリティの一郭を獲得できているのかもしれない、と。

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