Critical Legacy 1
「現代詩手帖」前身の「文章倶楽部」投稿欄で彗星のように現われて消えた若い詩人たちがいました。《いちばん最初に登場してきた》好川誠一は、谷川俊太郎と鮎川信夫の対談合評という形式の選考で度々「特選」になり《投稿欄の空気を払拭してしまった》といいます。谷川は合評の欄外に《好川さんはもう投稿は十分と思います(略)後進のために「特選」の欄をすこしあけてあげて下さい》と書き、自身が同人だった詩誌「櫂」に《推薦してみます》とまで異例の申し入れをしました。好川の詩はこのようなものです。
かなしいぞう
さみしいぞう
うおん うおおん泣こうではないか
きみよ きみは買われたのではない
時間が売られただけではないか
脂肪肥りの男のエゴに
きみよ きみのおしりにそっと
手をやってごらんなさい
ほうら
きみにはしっぽがないではないか
けものたちはきみをなかまにはしてくれないのだよ
そういうきびしい おきてがあったのだよ
「花よおかえりなさい」部分
鮎川は《作者の感じ方が生命的なリズムになって表現されている》と、谷川は《いまの詩が無視したり殺そうとしているかなしいとかさみしいという言葉の意味や音楽的効果を新鮮にしている》と称賛します。思潮社の社主で編集もしていた小田久郎が見た好川の外見はこんなふうでした。《彼はそのころまだ十八歳(略)小さな印刷所の工員をしていた。身体が大きくて腕っぷしも逞ましく、一見いかにも無骨な労働者タイプといった感じだったが、太い関節のふしぶしにどこか淋しい翳りが感じられた》といい、好川の詩について《ひとりぼっちの少年の、やり場のない、あらん限りの泣き声ででもあったのだろう》と振り返って評しています。好川が詩誌「櫂」に加わって空いた「文章倶楽部」投稿欄の特選の席はすぐに埋まりました。石原吉郎の詩「夜の招待」がそれでした。
来るよりほかに仕方のない時間が
やってくるということの
なんというみごとさ
切られた食卓の花にも
受粉のいとなみをゆるすがいい
もはやどれだけの時が
よみがえらずに
のこっていよう
夜はまきかえされ
椅子はゆさぶられ
かあどの旗がひきおろされ
手のなかでくれよんが溶けて
朝が 約束をしにやってくる
「夜の招待」後半
谷川は、《これは純粋に詩である。詩以外のなにものでもない。散文ではパラフレーズできぬ、確固とした詩そのものだ》と絶賛し、鮎川も《詩以外のほかの表現では得られない境地だ》と応じました。小田は、《投稿原稿を読みながら興奮するなどということは、そうめったにあるものではない》、《五四年の終わりから五五年にかけて、「文章倶楽部」の投稿詩欄は、空前の「石原吉郎の時代」を迎えることになる。それは同時に、「文章倶楽部」詩壇の「黄金時代」でもあった》とまで、『戦後詩壇私史』で回想して書いています。
「文章倶楽部」は、全国で20ヶ所ほどの支部組織があり、なかでも一番の規模である東京支部には多士済々の若い詩の書き手が集まりました。前掲の石原・好川を除いて詩人名だけ列挙しておきます。岡田芳郎・黒米幸三・河野澄子・勝野睦人・川井雅子(小柳玲子)・田中武・川瀬省三、また入選を競っていた詩人に寺山修司と森内俊雄(のち作家)がいました。やがて好川誠一の名前で現代詩研究の会「ロシナンテ詩話会」を結成しましたとの呼びかけが「文章倶楽部」の「支部通信」欄に発表されます。石原を先頭に、詩誌「櫂」同人となった好川と、若き芸術派詩人である勝野睦人を両翼に従えて「文章倶楽部」の三羽烏は「ロシナンテ」の三羽烏として《詩壇に羽搏いていった》(小田)ということになるのです。当時の「文章倶楽部」の有望新人として抜きんでて頭角を現していた詩人がこの三人のほかにもう一人います、寺山修司です。小田の『戦後詩壇私史』内の文章にも寺山の名前と、投稿欄入選詩の引用、谷川・鮎川の対談合評記事はあるのですが、それ以上のことはネットその他で調べても寺山の動向はよくわかりませんでした。
(つづく)