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鎖帷子を着た詩

篠崎フクシ 詩集『ビューグルがなる』

 詩的土壌というものがもし、詩に纏わる状況のなかで存在するとしたならば、本書は少し異質なものを持っているとの感想をもった。感情を含めた内面世界の描出が極端に抑制されていたからだ。詩を本格的に書く以前にミステリーとハードボイルド風の小説二冊を刊行ずみであることと、そのことは無関係ではないだろう。詩と小説の文体の違いはあっても隙が無く破綻がみられないのは当然だろうし、高校教師という職業柄も内面吐露の抑圧に加担していることだろう。異質であり刺激的である作品を歓待する日本的な文化的で精神的な風土によって登場してきたのだと考えていい。さて詩作品であるが、指呼できる明確なコアをみつけるのは極めて困難な詩作品ばかりだ。詩的言語が鎖帷子のように堅固なのだ。なので、心身の熱量を感じとれる詩句で判断するしかない。表題作の〈傷の拡張は電子の所為ばかりとは言えない〉、〈はじまりの駅へと急ぐ、かかとの響き〉(『かかとの響き』最後の行)にわずかにほのみえるが 、〈干し忘れた洗濯物をさがしている〉(『眩しげな窓に』最後の行)以降の詩篇では、日常的な光景も断片的に展開されて感情がかなり露わに表現されている。詩『雨のゆびさき』がそれに当たる。〈庭の煉瓦を黒く染める/音もなく降るきみを/雨、と呼ぶけれど//きみは僕のうちでじっと、/〈その日〉を俟つてゐる〉〈雨は、消えてしまつた/時雨の季節がめぐるたび〉の「雨」は「きみ」だから、いなくなった女を偲んでいる詩だということになる。こんなところに、著者の謎めいた詩の仕掛けがみえる気がする。ミステリーの世界から来たスケールの大きい、新たな顔の詩人誕生だと持ちあげれたならば、顰蹙物だろうか。

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