日常を逸脱する詩情
脇川郁也 詩集『マンハッタン点描』(花書院)
前々回刊行された詩集『ビーキアホゥ』の表題語句の意味がこの詩集によって了解できた。同じタイトルの詩篇があり、そこに〈蛾のような若い男に道を尋ね〉返答をもらった後、〈ありがとう、と返して別れた〉のだが、〈蛾のいった最後のことば〉が、意外にも〈「ビーキアホゥ」〉だったのだ。場所はニューヨークのソーホー地区、〈ありふれた危険〉地帯での出来事である。この〈日本では聞き慣れぬ〉〈ことば〉によって、脇川はポエジーを刺激されたのだが、詩はそのときはまだ生卵の状態だった。ワールド・トレード・センターが聳えていた時代、親しかった友も自分も若かった。だがいま、彼は亡くなり自分ももう若くはない。友の詩とニューヨークでの様々なシーンの写真に触発されて、あるとき生卵からヒヨコが孵化したのだ、詩というヒヨコが。余情をひく佳い詩だった。それにしても詩のコアであるポエジー、詩情とはなんだろう。この50ページほどしかない薄い詩集でも何篇かの佳品があった。素敵な詩句もあった。それら、佳品だと思われる作品を列挙するだけでヨシとして、読みを終わらせて良いのだろうか。詩情とは余情なのか。〈つなぎ止めていた風が歪みはじめた〉(『帰り道』)、〈ゆうべの夢のつづきは/ドッグフードにまぜこんでしまった〉(『朝の食卓』)、〈泣いている人がいないところなんて/いまの地球上にはないさ〉(『魔界』)、〈いまではリンと名乗っている女/(彼女も橋を渡るたびに名前を変える)/(略)/ぼくはまだ彼女の名前を知らずにいる〉(『ミステリー』)等など、どの詩句やセンテンスも日常から逸脱しかかった場所へ突出してゆこうとする動きがある。ぼくはいまこれを、詩情とか余情の名前で呼ぼうかと思う。
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