公正中立で偏りのない意見とは何か
「公正中立で偏りのない意見を持つということについてはどうお考えでしょうか?」
「うむ」
「この議論にはポリティカルコレクトネスやシビリティといった言葉に代表されるような、現代人のジレンマが現出していることと思います。
まず、相川先生とお話していると、豊富な海外経験や歴史上の出来事からの引用に感嘆すると共に、深い内省と実践を繰り返してのみ得られる真実味のようなものを感じます」
「ええ」
「これまで人間たちが考察してきたものは多種多様なものの中から自分が興味を持ったものを追求しているということは、何かを選び、何かを捨ててこられたということでしょう」
「そう。世界秩序の再構築というテーマがあるから」
「はい。人生テーマということですね。自分の生きる軸を定めたら、あとは好奇心がおもむくままにいわば自動操縦状態に入ると。先生がお教えになっていることはそういうことですよね」
「その通り。心地よさ、つまり自分が発するエネルギーに注意しながらね」
「おっしゃられるように行動し始めると、今までいかに自分が思考にとらわれていたのかを痛感します。今でもそうです。何か行動を起こす時に理由を明確化しようとするクセがあります。その行動がどのような結果を生むのか考察しようとしてしまうんです。先生ほど、結果を手放すことはまだまだできていないようです」
「いや本当にすごいと思うよ!!20代の時点でそんなレベルまで行ってしまうと、後から大変そうだねぇ」
「お褒めいただきありがとうございます!そこでお伺いしたいのが、公正中立な意見についてです。相川先生のお考えですら、ご自身の興味による取捨選択であり、現時点での結果であるわけですね。エベレスト登山には様々なルートがあるわけですから、考え方には幅があって当然ですよね」
「そうね」
「ならば、先生の意見は偏っているのでしょうか?または、豊富な経験と内省を繰り返した結果行き着いた場所、いわゆる『正解ゾーン』のような領域があり、そのゾーンに入っている人の意見はほぼ共通ということでしょうか?」
「ふむ。それについて解説する前に、一つだけ伝えておく必要があるようだね」
「はい」
「それは、正解を選ぼうとするなということだよ」
「はい。それは、正解を選ぼうとすると思考に捉われてしまい、本来の自分らしいクリアな選択ができなくなるからということでしょうか?」
「そういうこと。何が正しくて何が間違っているかということはないのだからね。どう生きたって自由。その結果は自分に帰ってくるわけで。自分の人生に責任を持つということは、主体的に選択をするっていうことだからね」
「わかります。何かの判断を他人に任せるというのは責任逃れだと、いつもおっしゃってますもんね」
「うむ。人のせいにしたい、責任を取りたくないという庶民の気持ちは分からなくはないけど、本人たちの成長にならないからダメよ。自分で決めさせないとね」
「わかりました」
「うむ。その前提を持ってもらった上で解説しよう。この話は、現時点での私がわかっている範囲だと断っておくよ。なぜなら悟りのレベルというのはクリア度80パーセント以上の領域で、80から上は1パーセント上がるのにかかるエネルギー量が、80までに到るエネルギーの何倍も必要らしい。要は、1のレベルアップによる変化がそれまでの変化より極端である可能性があるということ」
「心のクリア度についてのお話ですね。2018年の一年間を費やして悟ために修行された時期の話ですね」
「そうそう。まあ、どう思われようと別にいいんだけれどね究極は。 さて、基本的に地球における判断の正解ゾーンは『どうしたいか』だけだよ」
「どうしたいか、、、ですか。つまり、本人がどうしたいかだと。それと公正中立で偏りのない意見というのは、どう関係しているのでしょうか?」
「物事の本質を正確に把握するということに尽きると思うよ。それについて表現の仕方の幅がいわゆる『正解ゾーン』なのだと」
「本質、、、というとエネルギーということになりますか」
「うん。そう。正義の反対は悪ではなく別の正義である、なんておもしろい表現があるようだね。すでに哲学者や政治家に限らずごく一般的にも議論されているけれども、そもそも公正とはフェアネスという英語だね」
「はい。あるいはジャスティスということでしょうね」
「うん。思うに、どちらにしてもそれは人間界に限った話であるということだね。宇宙にはないコンセプトだ」
「はい、それはいつもおっしゃられる『人間界と天界のルールは正反対』という話ですね!この話は周りの人が納得できる形で説明できる自信が全くありません。。。目に見えない手で触れられず存在を証明できないコンセプチュアルでウルトラC的な定義のように感じられるからです。もはや信仰で、信じるかどうかの世界かと」
「そうだねぇ。人間界の基本は人治だからね。その時点でのその地域の人間たちが『善い』と思えるコンセンサスのようなものがジャスティスでありフェアネスという概念として言語化されルール化されていくだろうからね」
「そうですね。そもそもポリティカルコレクトネスの語源がレーニンが活動家として社会主義革命をリードしていた頃に盛に使われていたという話を聞きました。熱い理想を掲げて革命を成し遂げた過程でも、その後のスターリン独裁でも、多くの貴重な人命が『正しさ』という名のもとに失われたわけですから怖いものですね」
「そうね。だから、私は、本人の心のクリア度次第だと思っているよ。真の意味での公正中立で偏りのない意見というのは、相手の魂の声を代弁することなのだよ」
「おぉー魂の声ですか、、、これまたグッと来るけど、論理的に理解することが難しいタームですね。。。」
「そう。だから答えはケースバイケースで当たり前。同じ相手に対しての意見でも、相手の成長段階に応じて言うことを変えることになるわ。つまり、一見、ものすごく一貫性がない。それこそが一貫性なのだけれどね」
「万物は流転する、、ヘラクレイトスですね。何度か先生が引用されてますね」
「うん。まあ一貫性について議論はまた別の機会に置いておくとして。この場では公正中立で偏りのない意見ということについての本質と、身近な日常生活での実例を話して終えておこう」
フェアネス。
もしあなたが会社員なら、フェアネスについて感じることはとても多いだろう。
他の社員より働いてるのにどうして給料が低いんだ!!フェアじゃない!
とか。
もしあなたが学生なら、フェアネスについて疑問を持つのは試験の時だろう。
ちゃんと論文書いたのにどうして私は低評価??フェアに審査してくれたの?
とか。
人間界であるから、アンフェアなことは枚挙にいとまがないというもの。
そんな中
『あの人はいつも公正中立で、フェアなアドバイスやフェアな対処をしてくれる』
という評判の人がいるものだ。
そういう人は、頭ごなしにジャッジするのではなく、状況を冷静に把握して、対立する両者がいる場合その両者からの意見を丁寧に聞いて、お互いにとってウィンウィンにクリエイティブなアウトカムを得られるように働きかけるものだ。
いわゆる『いい人』
幸か不幸か、私の元に来る生徒さんやクライアントには、こういう偏りのない公正中立な考え方をする方が多いのだ。
なぜか?
いい人だからこそ、円満な人格者であるほど、相手の幸せを思うあまり自分を犠牲にしがちであるからだ。
昨今、失言・差別発言での炎上がよく話題に上っているようだ。
んなもん知るか。
ホンネを口にすることを恐れることなかれ。
いい人ぶるな。
本心を偽るな。
芸能人たちですら、ズバッと物申せるご意見番のようなポジションに憧れているらしい。
そう思うなら心のクリア度を磨け。
本心を追求すればそれは必ず愛になる。
絶対的な強さがある。
フェアであろうとするならば、偽りを捨てホンネで生きよ!
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