そうだ、きっとそういうことがしたかったんだ。


頭が固い。

良く言えば真面目、悪く言えば頑固。私はよくもわるくも古風な性格だった。石橋をたたかないと前に進めないし、よく考え決断しないと行動できない。きっと人生の半分くらいは損をしていると思う。好奇心は旺盛ではあるけど、いつも指をくわえてみているような子供だった。

大人になってからは一層固さが増していく。これだと思っているものは断固として譲らないし、信じているもの以外は疑うことしかできない。なんともめんどくさい性格だなとつくづく自分でも感じる。それは仕事で遺憾なく発揮され先輩には融通の利かない後輩と言われ、後輩には煙たがられる存在になった過去もあるほど。それだけ自分の信じたものに誇りを持ちたかったのかもしれない。

看護師として働きだして12年、いろんな経験をしてきてたくさん悩んだ。責任の重圧や患者さんの状態変化に心を乱して辞めたいと思ったことなんてもう何百回あるだろう。
皆さんも仕事で失敗した時や注意されたときなど落ち込んだ経験があると思います。それと同じ体験ではあるけど、医療の世界はちょっと違って決して失敗が許されない環境。失敗未遂でも原因・改善策を考えないといけない。

同じミスをしないためのレポートもなんだか「どうしてそんな行動をしたの」と責められているようで、落ち込み度が150%くらいなる、そんな枠の中で働いてきた。



死のとらえ方

病院で働いていると当然のように経験する患者さんの死。NOTEでも生死をテーマにした文章を書いてきた。私が看護学生のころ「看護師として働いてくると何人もの死に立ち会って経験してそのうち何にも感じなくなるもの」と説明してきた指導者がいた。実際働いてみるとそんなことは全然なくて毎回の死の場面でたくさんの後悔や悲しみ、家族の思いを汲み取って一度として感情が揺さぶられない事はなかった。

前にも書いた文章だけど「あの時こうしてれば」「もっと早く気づいていれば」と時間をおいてからの後悔はどんどんあふれていく。きっとそれは医療従事者の間ではあるあるの事。

さらに患者さんが息を引き取るその瞬間に家族が間に合っていなかった場合、後悔は倍増する。その理由は私にとってそれが最後に唯一できるケアと信じてきたから。治療の甲斐もなく命の炎が消えていくのを静かに待つしかない時看護師にとっては少しでも家族の時間を長くする、家族の思いに寄り添って少しずつ死を受け止めてもらうそれだけしかできないんだ。この場面の度に自分が無力であることを痛感する。

いろんな家族の形はあるけど、危険な状態にある時私は決まってこの言葉を伝えていた。

「病状については主治医の説明の通りで厳しい状態です。その時がもしかしたら今日かもしれないし、明日かもしれないし本人さえも分からないことです。私たちのできる事は家族の見守る中で旅立っていってほしいという思いだけです」と。

私の最期の看護での正解は家族が間に合う事、不正解は間に合わない事の二択しかなかった。

だから、家族が到着する前に息を引き取ってしまったり、急変してそのまま帰らぬ人を看取った時にはひどく落ち込んでいた。

「なんでもっと早く連絡しなかったんだろう。」
「家族が間に合うような配慮が出来たんじゃないか。」と。



正解は1つではない

今日、職場で勉強会があり亡くなった患者さんの状況と振り返りをした。

その患者さんを仮に浜田さんとする。浜田さんは入院してしばらくは穏やかに過ごしていた。入院して2週目のある日、高熱が出て意識も低下し状態がみるみる悪化した。家族は二人娘さんがいたんだけど、どちらも遠方に住んでおりすぐに駆け付けることが難しかった。状態が悪化してからは毎日のように連絡し家族にこまめに情報提供を行った。2人の娘さんたちが帰省して来院する1時間前に浜田さんは息を引き取っていた。
元々癌が体中を蝕んでいていつかは旅立つ事は覚悟していたと思う。それでもその瞬間に間に合わなかった事は家族には色濃く残ってしまう。

その瞬間に間に合わなかった事が分かった家族は号泣しながら病室に入ったそう。その日に居合わせた看護師が

「1時間前に息を引き取りました。それからはずっと手を握って娘さんたちの代わりにそばに居ました。まだ温かいですよ、声をかけてください」と話すと家族は冷静になったそう。

振り返りの中でも家族が間に合うようにできる事はなかったのかという反省が上がっていた。

振り返りの発表が終わった後、師長が話し始める。

「もし、早めに分かったとしても結果は同じだったかもしれない。間に合っても、間に合わなくても家族はやっぱり後悔するし、悲しみが減るわけでもありません。だったら間に合わなくても代わりにそばにいるだとか、少しでも温かい状態を保つだとか違うアプローチをして家族を待つのも看護だと私は思います。間に合わせるだけが正解ではないんですよ」と。


普通の人が聞けばちょっと軽率な考えになるのかもしれない。でも、私の働いている病棟は緩和ケアの病棟。残された時間を少しでも濃密に穏やかに過ごすための場所なので治療してどうこうなる病状ではないのだ。

最期に家族が間に合わないのであれば、本人があえてその瞬間を選んだともとれるし、家族が間に合った時には本人が待ってたんだととれる。神秘的な解釈ではあるけど。


今まで家族を間に合わせることが正解だと信じていた私は今日の振り返りで驚きを隠せなかった。これまでの経験と全く反対の事を言っているから。でもそれが緩和ケアなのかもしれない。ここでは「病気を治す」事が目的ではなく「患者本人の尊厳」が1番なのだから。


緩和病棟では毎週毎週多くの患者さんが亡くなる。入院当初は元気であっても少しずつ衰弱していく。病気の前ではひとたまりもない。入院中に話をしたり、少しでも関わっていた患者さんが弱くなっていく姿を見ると本当に切ないし、寂しい気持ちになってしまう。そんな状態の時には身体をさすったり、そばで声をかけることしかできず悶々とする日もある。でもそれが本人の人生なんだ。

私は看護師の立場で日々懸命に生きているその姿を目に焼き付けて見届けること、確かに生きていたということを覚えていくことそれをしていくしかないんだ。家族にはなれないけど誰よりも家族の思いを肌で感じていくしかないんだ。


それがここでできる最高のケアなのかもしれない。




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