「推し(好き)は世界を救う」は本当の話
先日、福島で4日間の中高生向け映画づくりワークショップがあった。
そのスタッフとして、私は参加したわけだが、久しぶりに対面するティーンエイジャーが眩しくてたまらなかった。
もちろん映画好きも入れもいれば、親に言われてきました、俳優を目指してます!よくわからないけど映画づくり体験してみたくて!
まぁ理由は様々で、全国から福島へ集まってきた。
初めましての人たちといきなり「ハイ!映画作りましょう!」はそりゃあ緊張するわけだが、思った以上に意見が出なくて脚本づくりが進まなかった初日から始まったが、最終日には多くの人を招いて上映会を迎えた。
最終日の子供達は「また映画づくりをしたい」と口を揃えて言った。
たった数日で子供達は"何か"を掴んでいたように思う。初日とはあきらかに顔つきが違っていた。
映画づくりの楽ししさ
集団でモノづくりをする難しさ
俳優や技術部としての気づき
映画が人を繋げること
この先の人生で振り返る日の一つとして刻まれたのなら本当に嬉しい。
実はそんな彼らをみて、正直羨ましくてたまらなかった大人がここにいる。
10代で映画づくりを体験し学べること、触れられること。
私は島で暮らしてた15歳までは、映画に触れる機会はほとんど無く、16歳で引きこもりになった。
自分ができなかったことを環境のせいにするなという人もいるかもしれない。大人になればある程度自由はあるが、実際子供のうちは育つ環境に左右される。あとは社会の影響。
今ではコロナ社会が及ぼす影響も大きい。学生たちはなんでも制限、制限の中で貴重な10代を過ごしてる。青春は永遠だが、10代はやはり特別だ。
大人の都合で潰されて言い訳がない。だからといって、いつまでもいつまでも子供時代のせいにしてその場でじっとしていると、歳をくっただけの子供になる。
どうしても自由にはいかないご時世だが、10代彼ら自身の可能性は大きく、時に脆く、そして瑞々しい。
その時にした経験を私は「青い刻印」と呼んでいる。酸いも甘いもトラウマレベルになる敏感な日々。
人はクソみたいな社会に希望を見出す力を持っている。
まぁ、誰もがエネルギーを燃やし続ける訳も無く、私が消えたくてたまらなかった10代の話をすこしする。
島育ちの私は15歳まで走ってばかりの子供だった。親や周りの影響もあって自然と走る毎日を過ごしていた。陸上でいつも県の上位を競い、それが自分のステータスにもなっていて、活発な子だった。
特に将来の夢なんてものは無く、スポーツ推薦で高校へ進学した。
島には高校がないので、15で親元離れて、島を離れて進学するのは当たり前だった。
学生時代はどうも学校というものが世界の全てのように感じてしまう。ただ同じ校区内の同い年の人が集められて、同じ服を着て、押し込められたあの教室という名の箱が。
私は同級生13名の世界から、1クラス35 名6クラスの世界へ。
最初は居場所を作るのに必死だった気がする。それがだんだん無理になっていき、好きだったはずの走ることも記録が伸び悩み、走れなくなっていった。自分の身体が自分でコントロールできないのも嫌だった。気づいたら女らしい身体になっているのが悲しかった。男になりたい訳じゃないけど、女の身体に変わっていくことの現実は私にとって残酷だった。
よく過呼吸を起こしては保健室に運ばれ、数少ない友人に心配されたが、自分が情けなくて嫌になって、人の顔が見れなかった。
毎日のように走ってた400mトラックを見るだけでも過呼吸を起こした。
環境の変化、身体の変化、周りの人の変化に置いてけぼりにされたようだった。全然ついていけない、なんで皆そんなに順応しているの?
10代というのは心身ともにとても不安定だ。
それに気づくのはどうしても大人になってからな訳だが、私はその不安定の中を盛大に大転びして毎日泣いていた。
周りの目を気にして、人に会うのが嫌で引きこもるようになった。
「あんなに陸上で活躍していたのに、こんな風になってしまったの?」そう言われてる気がしていた。
走り続けるのにお世話になった人たちには尚更合わせる顔が無い。
精神科に行って、自分のことを話してごらんと言われても、自分が一番わからないのに言葉になんてできないし、言葉にできない自分が情けなくてぼろぼろ涙がこぼれるだけだった。
どうしていいかわからない。転んだ後の起き上がり方を知らない。
死にたいというか、消えたい。
そんな風に毎日。
そんな中でも、絵を描くことと、映画を見ることだけは好きでいられた。
自分を忘れていられるからだ。現実逃避。
絵を描くことは昔から好きで、この頃はよく中1から好きだったRADWIMPSを聞いてはその世界に入って絵を描いていた。
ありがとう野田洋次郎。
ありがとうRADWIMPS。
いつか会えたら、あの時の自分を救ってくれたお礼を言いたいと思っているし、いつか一緒に仕事がしたいと願っている。
当時、唯一好きな俳優が神木隆之介で、彼を観たくて映画館は無い環境だったがDVDを借りて映画を観るようになった。
当時は後味よく終わるハッピーエンドの作品は避けてあまり観ていなかった。
映画が気持ちよくエンドロールとともに終わってしまうと、そこで消化されるような気がしたから。観たいものが目の前に出てくるのは満たされてしまう。でも、予想外、気持ちよくない、バッドエンドって映画が終わっても引きずってしまう。その引きずってしまう時間も自分や周りのことを考えずに、映画のことを考えていられたから好きだった。
消えたいくせに、死ぬのが怖かった私は、小さい頃からよく「死」について考えた。朝起きてこの世界にたった1人だったらどうしようと考えては怯え、寝る前にお祈りをしながら眠りにつく子どもだった。今よりよっぽど「死」に対して敏感だったと思う。その感覚を忘れたわけじゃなく、そればかりを考えて怯えていても進めないから、大人になるにつれ自分なりに整理をつけ始めた。
「映画なら自分が死んでも誰かに覚えていてもらえるかもしれない、スクリーンで蘇ることができる」そんな寂しがり屋の究極の手段を選んだ。
逃げ場所だった映画は行きたい場所に変わっていった。
初めて持った夢という名の目的は、私に行動を起こさせた。
まず、映画を学べる場所へ行きたいという目標を果たすために高校の卒業は必要条件になった。もう元いた学校へはどうしても戻れなかったので、バイトしながら通信制の高校へ通い高卒認定をとった。
なんとか映画の大学へ入学し、最初は人の多さにビビり散らかしたが、青春を取り戻すように4年間映画を学びながら大学生活を謳歌し、ありがたいことに今は映画や映像の仕事をしている。
走って結果を残すことでしか恩返しができないと思っていた。
だけど、それ以前に自分を肯定することが必要だったのだ。
たくさん迷惑心配かけた人たちに、自分勝手だが今は映画や映像で少しでも恩返しができていたら嬉しい。
自分のこれまでの経験でしか語れないけれど、一つ言えるのは、
『推し(好き)は世界を救う』は本当だ。
少しでも心揺さぶられるものは、その時の自分も大事にしてほしい。
気持ちが落ち込んでしまった時、やる気が起きない時、それこそ転んでしまった時、「好き」が支えてくれる。
映画や音楽などの芸術でも、自然や動物や旅でも、食べ物やアイドルでもなんでも。好きを仕事にしよう!というわけではなく、そこに費やす時間は決して無駄ではなく、きっと人生を豊かにしてくれるだろうし、そこでしか得られないエネルギーがある。
そして、その時の自分の感情を簡単に流さないで。誰かの言葉に自分をのせないで。
その手にあるスマホには沢山の誰かの言葉が溢れていて、選びやすいし、エモいや草で片付けて安心してしまいがちだけれど、あなたの心の揺れは他の誰でもない、あなただけのもの。
転んだ時の起き上がり方、自分の慰め方の一つとして「好き」に思う存分浸る。
起き上がらずとも、そうなった時の立ち回りを覚えればいい。
何も悪いことじゃないし、誰だって不調な時はある。
だから、自分がわからなくて言葉にできない時が来ても、焦らなくて大丈夫。ゆっくりで大丈夫。転んだ場所に大の字になってひとまず寝てみるように。そしたら走って前を向いてる時には見えなかった景色がある。今だけに感じられる、見れるもの。
辛い状況の時、今の自分をひとまず受け入れることは、きっと今の自分を救うきっかけになる。
どうか生きていてほしいあなたへ。
泣いていた私より。
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