そして誰も未来を語れなくなった
BASICの悪夢とPythonの癒し
情報工学者になる遥か以前、中学二年生だった私は、当時は不治の病として恐れられていた『中二病』に罹患し、Z80と直接マシン語で話すしかない深刻な症状を抱えていた。
今でこそ『ラズパイ』という超便利な電脳玩具が普及しているが、私が中二病の末期症状に苦しんでいた頃は、すでに絶滅してしまったマイクロカセット磁気テープに、16進キーボードを使ってマシン語の『プログラムを録音』するのが流行っていたのだ。
『プログラムを録音』と言うと、『この人はコンピュータ音痴じゃないのか?』と疑うコンピュータの専門家もいるかも知れない。しかし、昔はコンピュータと対話するために、『ピー [ACK]、ギャー [NAK]、ビコン [DATA]、ピコン [SYNC]、ギュー [ERROR]』といった音声でデータをやり取りするのが、驚くほど便利だったのである。
テレックスはすでに恐竜の化石のように過去の遺物となり、人類はFAXという輝かしい未来技術に全幅の信頼を寄せ、感熱紙が時代を変えると本気で信じていたのだ。
それから暫くして、私は古代言語のBASICに出会った。BASICはシンプルで親しみ易いはずだったが、すぐにその苛立たしい落とし穴にハマってしまった。それが、GOTO。そう、GOTO命令はプログラムに混沌を生み出し、まるで無限の迷路に迷い込んだような錯覚をもたらす元凶だった。
GOTOを使うと、プログラムは特定の行へ飛び、そこからまた別の行へ跳び続ける。そして最終的には、同じ場所をぐるぐると彷徨うことになる。
まるで悪夢のように、画面には同じメッセージが延々と繰り返される。『いったい何が起こったのか?』その理由は至ってシンプルだ。GOTO命令が作り出した無限ループが、私のプログラムを乗っ取り、ついには私の頭までかき乱していたのだ。
GOTOの罠にハマり、試行錯誤を繰り返してコードを修正しようとしたあの日々を思い出すたび、今でも心がざわつく。ラベルと行番号の間を右往左往し、どうにか脱出しようとするたびに、バグという名の鎖が私を絡め取る。GOTOは、その単純さゆえに恐ろしい武器となる。無邪気に見えて、実はプログラマーを静かに、そして確実に苛む存在──それがGOTOなのだ。
そんなフラストレーションから私を救ってくれたのが、Pythonだった。Pythonは洗練された美しい言語で、その理解しやすい構文が私に安らぎを与えてくれた。ループを作るためのwhileやforといった明快な構造が備わっていて、Pythonで無限ループを書くたびに、初めて整理された書斎に足を踏み入れたような感覚が広がるのだ。
while True:
print("書きたいなら書くしかない。")
なんとシンプルで美しいのだろうか! 行番号を追いかけたり、プログラムがどこへ飛ぶのか心配したりする必要もない。Pythonは、私の中に根深く残っていたGOTOのトラウマをそっと癒し、プログラミングの楽しさを再び教えてくれた。整理された構文と直感的な命令が、混沌を超えて私をコードの調和へと導いてくれる。
GOTOには歴史があり、その存在には一種のノスタルジーもある。しかし、GOTOの魔の手から逃れた今、人類も生成AIも、Pythonの懐で穏やかにコードを書くことができる。苛立ちから解放され、心からコードを書く喜びを感じられるのは、まさに言語の進化のおかげだ。GOTOはもはや私にとって悪夢ではなく、ただの昔話に過ぎない。Pythonのシンプルさを知ってしまった今、もう二度とGOTOの迷宮に迷い込むことはないだろう。
ところが、noteを彷徨っていると、またGOTO無間地獄のデジャブに陥った。『書きたい気持ちは山々だ。でも、書きたいのと書けるのは別の話だ。難しいと言っていたら一生書けない。だから、書きたいなら書くしかない。』──この無限ループに陥る小泉進次郎構文を読んでしまったのだ。
まるでかつてのGOTO命令が甦ったかのように、言葉の迷路に閉じ込められた気分だった。同じフレーズがぐるぐると頭の中を回り続け、出口の見えない言語の迷宮が広がっていく。あの懐かしき苛立ちと混沌が、再び私を支配し始めたのである。
この小泉進次郎構文の無間地獄の恐ろしさは、次のように繰り返されることにある。『書きたい気持ちは山々だ。でも、書きたいのと書けるのは別の話だ。難しいと言っていたら一生書けない。だから、書きたいなら書くしかない。』これが延々と続き、『書きたい気持ちは山々だ。でも、書きたいのと書けるのは別の話だ。難しいと言っていたら一生書けない。だから、書きたいなら書くしかない。』…と無限に繰り返され、思考が完全に停止してしまう。結果として、まるでプログラムのフォルトエラーのような、思考停止状態に陥るのだ。
そして誰も未来を語れなくなった。
『私の中で三十年後っていうことを考えた時に、三十年後の自分は何歳かなと』考えると、未来の自分が見えてくるようで見えてこない。
未来というのは、まだ来ていない未来であり、今から続くこれからの時間だ。私たちは今、この瞬間を生きているが、その瞬間の積み重ねが未来を作っていく。つまり、未来は今の延長線上にあるのだ。
原子力発電所が爆発したこの『区域』は、もはやかつての街の姿を留めていない。つまり、この街はもう以前の街ではなくなってしまったのだ。地上には人の気配がなく、誰もいない無人の世界が広がっている。すべてが自動で動き、機械が機械を制御している。自動化された世界では、人間の手は必要とされなくなった。
エネルギーも食料も、生活に必要なものすべてが、見えないところで見えないように供給されている。まるで空気のように、そこにあるのが当たり前であり、その存在を意識することさえない。人々はその背後にある仕組みや、そこに費やされる努力を考えなくなった。考えることをやめてしまったのかも知れない。考えないということは、思考を放棄することであり、思考を放棄することは人間性を失うことだ。
情報はAIによって自動生成され、ニュースや娯楽はその日その日の流行に合わせて配信される。私たちは、AIが作り出す情報だけを信じ、それ以外の情報を知らない。知らないということは、存在しないのと同じだ。正しいとされるものを疑うことは、いつの間にかタブーになってしまった。タブーというのは、してはいけないことであり、してはいけないことはしてはいけない。
『正しい未来』という言葉がある。でも、その『正しさ』は一体誰が決めたのだろうか。正しいとされるものが本当に正しいのか、それを疑うことは許されない。許されないということは、禁止されているということであり、禁止されていることはしてはならない。疑問を持つことは無意味だと教えられ、無意味なことをするのは無駄であり、無駄なことはしないほうがいいと教えられた。
もしかしたら、『間違った未来』という可能性もあったのかも知れない。でも、それを知る術はもうない。知る術がないということは、知ることができないということであり、知らなければ存在しないのと同じだ。選択肢があるようで、実は最初からなかったのかも知れない。選べない選択肢は、選択肢とは言えない。選択肢とは、選べるからこそ選択肢なのだ。
三十年が過ぎ、私は今もこの未来で生きている。生きているということは、存在しているということであり、存在しているということは、そこにいるということだ。何の疑問も持たず、何の不安も抱かず、ただ与えられた日々を過ごしている。過ごすということは、時間が流れているということであり、時間が流れているということは、過去から未来へと進んでいるということだ。
『想像していなかった未来』が、ここにある。それは私たちが選んだ結果なのか、それとも選ばされた結果なのか。結果というのは、原因があって初めて生まれるものであり、原因がなければ結果はない。答えは風の中だ。風というのは目に見えないけれど、感じることができるものだ。感じることができるということは、存在しているということだ。存在しているということは、そこに意味があるということだ。
しかし、その意味を問うことは、誰もがいつの間にか忘れてしまったのかも知れない。疑うことも、考えることも、未来について語ることも、もはや遠い過去のものとなった。私たちは、ただ目の前にある『正しい未来』に従うだけの存在と化してしまった。
そして誰も未来を語れなくなった。
武智倫太郎
自己解説
今回は、野呂一郎先生が書かれた『進次郎構文への新視点。』と、黒夢(クロム)@俳号さんが書かれた『「なんのはなしですか」が拓く未来』と、蒔倉 みのむし。さんの『思い立ったが吉日。【大切なお知らせ】』に影響を受け、この作品を書きました。
野呂先生は、糸東流、松濤館流、そして芦原会館で精神と身体を鍛え、棒術まで習得しているプヲタ(プオタ同士でのみ使うことが許されているプロレス・マニアへの敬称)です。Noteで『もちろんみんな世界のカナザワのことは知っていると思うけど』という前提で、國際松濤館空手道連盟の金澤弘和先生について語っているのは、野呂先生と私だけでした。
また、オカルトやスピリチュアルに造詣が深く、米英の経営学を専門とする点で、私と専門領域が非常に重なっています。
そのため、野呂先生の記事を拝読すると、思考パターンに多くの共通点を感じますが、最大の違いは『女子プロレスを知っているかどうか』という点です。残念ながら、私は女子プロレスを観たことがないので、『女子プロレスは「日本文化」であり、これからの「日本の資産」である』かどうかについては、よくわかりません。
女子プロレスについては、トレンディーな話題に強い鉱物太郎さんがNetflixの『極悪女王』というドラマについての記事を執筆しているので、ホットな話題であるはずです。
蒔倉みのむしさんと私は『変態仮面』について熱く語り合ったというか、私が一方的に熱く語ってしまったことがあります。
それで、蒔倉みのむしさんの作品『重なる。』の感想文を書いたところ、作品本文よりも長くなってしまいました。しかも、いざ感想文を送ろうと思ったら、100文字制限があったので、十分な内容を伝えられませんでした。
武智倫太郎
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