そして誰も映えられなくなった
2021年まで『インスタ映え』はまるで人生の使命のようだった。虹色ドリンクを手にしたカフェでの自撮り、夕日に照らされたビーチでの完璧なポーズなど、『いいね』を獲得するためならどんな出費やリスクもいとわなかった。そこはまさに命がけの戦場であり、これは決して比喩ではなかった。実際、映えを狙った危険な行動で命を落とすケースも多く、社会問題としてたびたび取り沙汰された。
たとえば、グランドキャニオンの崖端でポーズを取ろうとして転落した人々、インドの列車と並んでセルフィーを試みて命を落とした若者たち、超高層ビルの屋上でバランスを崩して墜落した者たち。彼らが命をかけた戦場はもはや一種の集団心理と化し、『いいね』が戦利品のように扱われた。
そんな『映え戦場』も、新たな戦国時代の到来で激変する。TikTokという新兵器が登場したのだ。
TikTokはショートリールと呼ばれる短尺動画で若者の心を鷲掴みにし、インスタの老兵たちを次々と駆逐していった。Instagramはリールを導入して巻き返しを図るも、どこか残念なアルゴリズムと微妙な仕様が災いし、気づけば若者たちはTikTokに大移動した。インスタはついに『親世代専用SNS』の烙印を押され、『こんなところにいたら老ける!』と若者たちは逃げ出していった。
さらに、タイムラインには広告があふれ、『友達の投稿? そんなの見る暇あったら広告を見ろ!』とばかりに流れる始末だった。オーガニックな体験を求めたユーザーたちは次第にインスタを離れ、リールやショッピング機能のごてごてした追加により、『ここ、何のアプリだったっけ?』と混乱する人が続出した。
そして、最後の致命的な一打として、画像生成AIという名の暗殺者が舞い降りた。どんな景色でも、どんなポートレートでも、ワンクリックで完璧に生成される時代が到来し、もはや人間が『いいね』を押すことさえ面倒と感じるようになった。そしてその代わりに、『いいねAI』が登場。自動で『いいね』を押してくれるという、便利だが虚しい時代への突入だった。
しかし、その便利さの背後には大手企業の巧妙な罠が潜んでいた。無料だった画像生成AIには突然オプション料金が追加され、『特別なフィルター? 有料です』『高品質な解像度をご希望ですか? プレミアムプランをご利用ください』といった具合に、気づかぬうちに画質や自動コメント機能の品質を下げるステルス値上げが行われていた。『映え』のために支払うコストは膨れ上がり、普通の人々は気軽に参加できない領域へと追いやられていった。
プロのインフルエンサーたちも競争に負けじと高額オプションを買い足し、リアリティとの格差は広がる一方だった。しかし、彼らが必死に購入する有料オプションも次々に価格が上がり、『新機能を使いたいなら追加料金を』とさらなるステルス値上げが仕掛けられ、終わりのない課金地獄に引き込まれていったのだ。
SNSプラットフォームも負けてはいなかった。投稿のリーチを意図的に下げ、『もっと多くの人に見てもらいたいですか? 広告枠を購入してください』と誘導した。ユーザーたちは知らぬ間に以前よりも多くの時間とお金を費やす羽目になった。
やがて、AIによる無個性で完璧すぎる写真とステルス値上げの連続に疲れ果て、人々は『映える』こと自体に興味を失った。高騰する『映えコスト』とともに、『いいね』を求める熱狂は冷え込み、もはや誰もインスタグラムを開かなくなった。企業は短期的な利益を得たが、ユーザーが去った後には虚無しか残らなかった。
『映え』の時代は、まるでAIとステルス値上げのブラックホールに吸い込まれるかのように静かに終焉を迎えた。そして、誰も映えられなくなった世界には、ただ虚無と皮肉な笑いだけが残った。
そして誰も映えられなくなった。
武智倫太郎
自己解説
本作品は、織原松治さんの『フランスのSNS「BeReal」とは?』に影響を受けて書いたものです。彼と私は、多国籍対応の事業に携わっているという共通点があり、関心の対象が近いため、注目する国や地域、テーマが重なることが多くあります。しかし、彼の視点は私と異なることも多く、多面的な情報の捉え方をするうえで、非常に役立つ情報を発信してくださっています。
この作品『そして誰も映えられなくなった』では、Ryéさんの記事も参考にしていますが、おそらくRyéさんご本人には、どこが参考になっているか分からないと思います。ここからが自己解説の本領発揮です。
Ryéさんの作品を理解するためには、私が定義している『おフランスの定理』を理解する必要があります。『おフランスの定理』とは、国名の先頭に『お』をつけて違和感がないのはフランスだけである、という定理です。たとえば『お菓子』のように『お上品』な表現をイメージさせる『お』を国名の前に付けると、『おフランス』だけが自然にお上品な印象を持つのです。
この定理の正しさは、『おアメリカ合衆国』や『お日本』のように、他の国名に『お』を付けると違和感が強すぎることからも明らかです。つまり、世界中で唯一『おフランス』だけが、自然に品のあるイメージを持つ国だというのが『おフランスの定理』なのです。
この『おフランスの定理』により、『おフランス語』を話したり、『おフランスの風景』を描いたりすると、通常は嫌味な『おフランスかぶれ臭』が漂ってしまいます。しかし、Ryéさんのnoteにはこの『おフランスかぶれ臭』がなく、自然体で表現されています。Ryéさんは、訪問した国の写真や文章、風景など、幾らでも『映える』要素があるにもかかわらず、一切『盛っていない』のです。そのため、軽薄なインスタグラマーとは一線を画しています。つまり、本作の主要テーマの一つである『何かを表現するために、何かを盛る必要があるか否か?』という点において、参考になっているのです。
ところが、驚いたことにRyéさんが、『絶筆宣言』をしているのです。筒井康隆は『断筆宣言』をした後も執筆を続けているので、たとえ『断筆』していた翌日から文章を書き始めても、『一日断筆』と表現することが可能です。しかし、Ryéさんは『断筆』よりも強い意思表示である『絶筆宣言』をしています。しかも、『おフランスかぶれ臭』がしないように "adieu" ではなく、カタカナで『アデューnote』とハッシュタグを添えています。
『アデュー』の語源は、フランス語の『adieu』で、『神の元に』という意味の『à Dieu』から来ています。これは、単なる別れの挨拶ではなく『二度と会わない』というニュアンスを含むことが多く、最終的な別れや永久の別れを指す言葉として使われます。現代のフランス語でも『adieu』は、再会を前提としない非常に重い別れの挨拶として用いられています。
しかし、日本には『プチ断食』という朝食抜きくらいの気軽な『断』もあるので、『断筆宣言』をして、書き始めても何の問題もないのです。
アデューとアリーヴェデルチの違い
『おフランス語』の『アデュー(adieu)』とイタリア語の『アリーヴェデルチ(arrivederci)』は異なる語源を持っています。先述の通り『おフランス語』の『アデュー』は『二度と会わない』といった最終的な別れのニュアンスが強い言葉です。
一方で、イタリア語の『アリーヴェデルチ』は『また会う日まで』という意味で、『再び(a)』+『見る(rivedere)』+『私たち(ci)』が組み合わさっています。これは『また会いましょう』や『またお会いできることを願っています』というニュアンスを持ちます。こちらは再会を前提とした挨拶であり、『さようなら』と言っても『また会おう』という気持ちが込められています。そのため、『ジョジョの奇妙な冒険』のブローノ・ブチャラティのセリフとして有名な『アリアリアリアリアリアリ~アリーヴェデルチ!(さよならだ)』は、本来であれば『アリーヴェデルチ!(また会おう)』という意味になってしまいます。
つまり、『アデュー』は永遠の別れを意味する場合が多いのに対して、『アリーヴェデルチ』は再会の期待が込められているため、根本的な意味もニュアンスも異なります。
ところで、盛らない点においては、職場や家庭では『ジョジョオタ』であることをひた隠しにしている『きのこみや』さんも『盛るよりも寧ろ隠す』ことに注力しているので、本作の意味が理解できるはずです。
きのこみやさんは、語源の学習から始め、今では原書でアガサ・クリスティの殺人事件を読んでいるのです。これは多分、Ryéさんの『原書のすゝめ』の影響だと思いますが、一人でも多くの方が、外国語や海外文化を理解することは、島国根性の日本において極めて重要なことだと思います。
武智倫太郎
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