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「考えさせられる」ってなんだよ
この間映画観に行ったんすよ。池袋の新文芸坐でウォン・カーウァイの4K特集をやっていて、その時見た映画のひとつが「ブエノスアイレス」っていう映画だったんですけど、男同士の恋愛模様が主題になっていて、これがちょっと小難しい内容のお話だったんです。なかなか解釈が難しくて、ちょっといろんな人の視点も見てみた~い!と思ってレビューサイトをパラパラと眺めてたんです。その時のレビューのひとつにこんなのがあったんです。
「二人の関係性を見るにつけ、愛情の形について考えさせられた」
これを見て、えっちょっと待ってちょっと待ってってなったところから、話が始まります。
これはもうおれの人間性がたいへん面倒臭いっていう話でしかないんですけど、おれこの「考えさせられる」っていう言い回しが本当に嫌いで!これを目にしたり耳にしたりすると鳥肌が立ってきちゃうんですけど、これを書いている今もおれの腕が若干チキンになっていて、バーレルで並べたらおケンタさんなのかおれのチキン肌なのか見分けがつきませんですよ。見て見て!おれの腕、鳥肌立ってる!鳥肌ってちょっと人に見せたくなりますよね。そうでもない?
それで、この言い回しの何が嫌かってまず「何も言ってないのに何か言ってやったぜ感」をこの一文からヒシと感じるんですよね。「考えさせられる」って、ただ「考えている」ことの表明でしかなくて、まだその人が具体的に何を考えているのかが分からないわけです。なんならほんとに考えてるのかどうかすらも分からない。
ノリとしては、「え?マミちゃんとの250日記念日の過ごし方?考えてる考えてる」とか言う彼氏と立ち位置としては同じだなっと思うんです。絶対考えてないでしょ!って喧嘩の火種になるやつじゃないですか。じゃあ、具体的に何を考えてるのか教えてよって言ったら、しばらくの沈黙ののち、「250日記念って…刻みすぎじゃない?そもそもやる意味あるかな?」みたいな答えしか返ってこない未来が見えるわけですよ。ほらやっぱり考えてないじゃん!!ってマミちゃん絶対怒っちゃうじゃないですか。この時、マミちゃんの怒りとおれの「考えさせられる」に対する思いはすごく似ているわけです。
マミちゃん的には、やっぱり考えた証拠とか姿勢みたいなものが欲しいわけですよ。「うーん、寄生虫博物館に行こうか、つくばわんわんランドに行こうか迷ってて…」みたいにそれがどんなに拙い考えでも、なんでその二択で迷ってるんだよってなるかもしれないけど、マミちゃんが喜ぶ顔を想像しながら考えた、その時間が存在していた手触りがあるだけで心象もだいぶ違うと思うんすよね。250日記念は刻みすぎだなとはおれも思いますけれども。ものごとを具体化することから逃げてんじゃねえ!っていう気持ちになるわけです。
で、「考えさせられた」って言ってる人の顔を想像してみてほしいんですけど。違う、マミちゃんが喜ぶ顔じゃなくてっていうかマミちゃんって誰だよ!「考えさせられた」って言ってる人の顔です。想像してごらん。ちょっと一仕事終えたときの顔してませんか?お前別に今の段階ではなにも言ってないのと同じだからな!なにちょっと「言ってやったぜ」みたいな顔してんの?って思うわけです。何も言ってない奴が何か言った気になってんじゃねえぞ、と、そういう風に思うわけですね。(歪んでる!)
それから、考え【させられる】っていう主体性のなさにも腹が立ちます。「考える」とか「考えさせる」とかでもなくて、「考えさせられる」ですよ。後半なんかゴチャゴチャ言っててよく分かんないんですけど、頑張って文法を紐解いていくと、使役と受け身の二種類の言葉が入り込んでいます。
つまり、別に考えたくもないことを無理矢理考えさせられているという意味にもとれるわけです。あのー両腕を縛られて逆さ吊りにされて、「考えないとお前の叔母さんの命はないぞ!」って脅されて、ようやく解放されておまわりさんのところに駆け込んだ時に出てくる言葉じゃないですか。「考えさせられました!逆さ吊りにさせられて、両腕を縛られて、おへそをくすぐられながら考えさせられました!」って時と文法的には同なわけです。
あるいは、おれが美術の先生とソリが合わなすぎて「2」をとって帰ってきた中学2年生のあの夜、お母さんから言われた「あんたは小さいころはあんなに絵を描くのが好きだったのに、将来は絵描きになるねえっておばあちゃんから1,000円おこづかいももらっていたのに、あんたにはがっかりさせられたよ」って言葉と文法的には同ですよ。あっ!頭が!昔のトラウマを抉られて頭が痛い!!抉られたんじゃなくて、抉ったのはあくまでおれ自身!
えーバファリンを飲みながら続きを書くんですけど、基本的に「考える」って、本来すごく主体的な行為なはずだと思っているんです。自らの頭で、自らの言葉で考えることに意味があるっていうか、なんかその「やらされてる感」に腹が立っているんだな、と思っています。
いや、分かるんすよ。あくまでも慣用表現というか、定型句としてふと口をついて出ちゃったってパターンとか、まだ自分の中で結論が出ていない複雑な事象に対してそう言いたくなることがあるのはよくわかる。会話の中で「考えさせられた」って言われても、おれはここまでピリつかないです。それは表情とかから、ああまだ結論が出ていない問題なんだな、とか、定型句で言ってるだけで、「はっとした」とかそういう文意なんだな、っていうことが分かりますからね。
それに、「考えさせられる」って言葉を使うのがふさわしい場面も時々あるというのもよく分かるんです。普段から目を背けていたことか、腐敗した政治問題とか差別とか考えたくもないことについて、目を覆うような事件をきっかけに考えてしまった場合とか、あえて「考えさせられた」ってワードを使う方がしっくりくる場面があることもよく分かっているんです。
ただ腹立たしいのはそれが文章になった時なんです。「~~について考えさせられた。」って文章を見るたび、いや考えた何かしらの痕跡を残して行けよと思ってしまうんです。少なくても何らかを考えたわけなので。
あ、ここまで書いてきて分かってきたんですけど、おれは「考えさせられた。」で話が完結しちゃうのが嫌なのかもしれない。何か小難しい話を展開しつつ、「お前はどう思う?」って問いかけたとき、「いや~、考えさせられるね」って言われちゃうと、そこで会話終了じゃないですか。そこでなんらかの考えを共有してもらうことでキャッチボールが成立するわけで。
おれが投げたボールに対して、どんなボールを投げ返してくれるのかなってわくわくして待っているところに、「一旦持ち帰って検討させていただきます」って言われてしまうとガックリきてしまうというか、そんな寂しいこと言わないでよ!ってことなのかもしれないと思ってきました。
なんか、「考えさせられた」に抱く感情って、おれは「怒り」だと思ってたんだけど、根源には「さびしさ」みたいな感情があるのかもしれないです。おれも油断をするとつい使っちゃいそうになる言い回しではあるんですけど、やっぱそこで対話が終わってしまう勿体なさとかさびしさみたいなものの存在は、心のどこかで意識しておいたほうがいいなと思ったのでした!そんな感じです。
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