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短編小説「壁の花たち」
令和七年四月一日、SNS実名制法が施行された。すべての投稿は公的個人認証と紐付けられ、匿名での発言は完全に禁止となった。施行から一年が経ち、人々は窮屈な実名の檻の中で、建前と本音の狭間で息苦しさを募らせていた。
篠崎 紗英は、スマートフォンの画面に映る投稿を見つめ、眉をひそめた。
『本日も大変お世話になりました。先輩の的確なご指導のおかげで、また一歩成長できました』
(嘘ばっかり。この投稿、さっきまで私に対して不満げな表情を浮かべていた河内 博隆のもの)
実名制となって、むしろ人々の本音は深く沈殿し、表層では完璧な建前だけが踊っていた。紗英はため息をつく。この状況は、果たして正しいのだろうか。
その夜、紗英は古びた路地裏で足を止めた。看板には「アナログ喫茶 レトロ」と、かすれた文字が浮かんでいる。扉を開けると、意外な光景が広がっていた。壁一面に無数の付箋が貼られ、それぞれに手書きのメッセージが記されている。
「いらっしゃい」
店主の老人が、穏やかな笑みを浮かべる。
「ここでは、お客様に自由に付箋を書いていただいています。匿名でも構いません」
(匿名? でも、それは違法では……)
「ご心配なく。これはSNSではありません。ただの紙ですから」
紗英は差し出された付箋を手に取った。しばらくして、ペンを走らせる。それは、彼女が長い間胸の奥に押し込めていた本音だった。
『SNSで完璧な自分を演じることに疲れました。笑顔の写真の裏で、私は泣いています。この建前だらけの世界で、本当の自分を見失いそうです。ありのままの気持ちを聞いてほしい』
一週間後、紗英は最近様子のおかしい河内を心配して、 「レトロ」に連れてきた。壁の付箋を眺めながら、河内はこの店の独特な趣旨を理解したように静かに頷いた。
二人は黙って付箋を手に取り、それぞれの想いを綴る。
『私の部署、本当は人手が足りていないんです。でも誰も言い出せなくて、みんな無理をして……。この状況を変えたいけど、実名では言えない』
『先輩に対して不満げな態度を取ってしまって、申し訳ない気持ちでいっぱいです。でも、毎日のプレッシャーに押しつぶされそうで……。SNSでは「感謝」なんて書いたけど、本当は助けを求めているんです』
二人の付箋は、壁の異なる場所に貼られた。
帰り際に河内が紗英に声をかけた。
「先輩、ありがとうございました。この場所を教えてくれて」
ある日、紗英は衝撃の事実を知る。店主は、かつて匿名の誹謗中傷に追い詰められ、自殺未遂まで追い込まれた人物だった。その経験から、匿名性の危険を誰よりも知っていながら、なお人々の本音の居場所を作ろうとしていたのだ。
「紙だからこそ、言葉の重みを感じられます。そして、この場所でしたら、傷つけ合うことなく、本音を共有していただけます」
店主の言葉に、紗英は深く頷いた。デジタルと法律の檻の中で失われかけていた、人々の真摯な対話の場所。それは、アナログという逆説的な手段によって守られていたのだ。
今日も「レトロ」の壁には、数えきれない本音の花が咲いている。それは、デジタル時代のアナログ革命であり、新しい形の自由なのかもしれない。
もともと有名人は実名発言だから大変ですね。裏アカウント使ってるんだろうな。
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