応援されるブランド・インタビュー【第7弾】ふらここ
東京・日本橋で、オリジナルブランドによる可愛い赤ちゃん顔の雛人形、五月人形、ブライダル人形の企画から制作、販売までを手がける人形工房“ふらここ”。
代表取締役の原 英洋さんは、人形師一家の長男として生まれながらも作家の道を目指され、一旦は出版社に入社。父の急逝にともない生家へ戻り、顧客のニーズに耳を澄ませながら家業をさらに盛り立てられます。
しかし、お客様や時代のニーズに応えるがゆえに、それを迎合と捉える職人たちと意見が分かれ、その伝統の呪縛から自由になるため、45歳の時に“ふらここ”を創業。
「常に時代のニーズに調和した日本の伝統文化を提供する」という経営理念と、「日本の美しい文化を次世代に伝えていく」というミッションを掲げる“ふらここ”は、どのようなブランド戦略を描き、どのようにして成長してきたのか。
原さんご自身のヒストリーから“ふらここ”の創業とこれまで歩み、そしてこれからのビジョンについて詳しく伺いました。
<インタビュー記事・コンテンツ>
1. 人形師ではなく、作家を目指した学生時代
2.絶望から始まった家業での日々
3.顧客ニーズに耳を澄ませたモノづくり
4.市場ニーズか、それともお客様への迎合か?
5. 45歳からの新たな船出
6.創業時から意識したブランディング
7.“ふらここ”のコミュニケーション戦略
8.インターナルブランディングの要は○○ ←一番の読みどころ!
9.変えてはいけないものと変えるもの
10.親と子の深い絆づくりに貢献する
1. 人形師ではなく、作家を目指した学生時代
AID:お爺様が人間国宝の人形師・原米洲、お母様が女流人形師の原孝洲という人形師一家にお生まれになったそうですが、子どもの頃から日常にお人形があったのでしょうか?
原氏:はい。私が生まれた生家は台東区の蔵前にあり、会社と住まいが一緒だったんです。1階と2階が会社で、3階が住まいでした。
AID:会社で作品を作っておられたのですか?
原氏:いえ。人形づくりは会社ではなく千葉に工房があり、仕事はそこでしていたみたいです。
当時、祖父が作る作品は百貨店で販売をしていたので、会社は百貨店と取引をするためにありました。
AID:人形づくりに興味がなかったと伺っています。
原氏:はい。まったくありませんでした(笑)。
私が生まれたのは昭和38年で、先の東京オリンピックの前の年、ちょうど新幹線が走った年なんです。
高度経済成長の真っ只中で、海外からガンガン物が入ってくる時代でした。
その当時は舶来物は良い物、日本の物は余り品質が良くないというような風潮がありました。そんな中、伝統的な人形なんて何かちょっと恥ずかしいと感じていたんです。
なので、後を継ぐ気はなかったですし、自分のやりたいことをやろうと思っていました。
AID:作家を目指されていたそうですが、クリエイティブという部分では家業と近しいものがありますね。
原氏:そうですね。生家がモノづくりをしていたので、ゼロから何かを生み出すことは日常茶飯事で触れていました。おそらく、その影響はあったと思います。
ただ、作家になりたいと思ったのは、大学時代にお世話になった語学の先生から言われたからなんです。
当時は今みたいに大学3年の時から就活するのではなく、大学4年になって、それも夏頃から始めるのが普通でした。
そして3年の時、その先生に「原、どうするんだ?」と聞かれ、「いや、まだ決めてないんですけど…」と答えると、「原は文章を書くのが上手いから、物書きになったらどうだ」と言われたんです。
そう言われた瞬間、「あっ、分かりました。物書きになります!」とその場で答えました(笑)。
AID:元々、文章を書くのが好きだったのですか?
原氏:はい。なぜか小学校の頃から国語だけは点数が良くて、成績は常に5でした。
大学の頃も、学内の文芸誌に何度か投稿して取り上げていただいたので、そういうのをその先生も知っていて、「物書きになったらどうか」と言ってくれたのだと思います。
AID:そこからどうされたのですか?
原氏:まずは書く勉強をしないといけないと思い、出版社でしっかりとした作家に付いて編集の仕事をしながら、物書きになろうと考えました。
丁度それが大学3年の時だったので、どうしたら出版社に入れるんだろうと思い色々と調べた所、マスコミ塾みたいなものがあったんです。
そこに1年間通って、集英社、講談社、新潮社、文藝春秋の4社だけを受けました。当時は全然知識もなくて、滑り止めも受けず、本当に4社しか受けなかったんです。結果、集英社に内定をもらいましたが、いま振り返ると本当に無謀なことをしたなと思っています(笑)。
AID:集英社には何年くらい勤められたのでしょうか?
原氏:1年と10ヶ月くらいでしょうか。働き始めて2年目のお正月に、病床で伏していた父に呼ばれ、「戻ってきてくれないか」と言われたんです。
実はその頃、お医者さんから父の病状を聞いていて、もう長くはないと知っていたので断ることもできず、「はい。分かりました」と答え、正月明けに会社に行って辞表を提出し、退職しました。
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こちらは人形工房ふらここの原 英洋さんとの対談動画です。
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