晴れたり曇ったり雨が降ったり。明日の人生に「触れ違って」いこう。映画『めためた』
自分のことを、ことさら馬鹿だと思う必要もないが、無闇に複雑化して深刻になることもないのではと考える。人間は、思ってるより単純な生きものだ。
駄目だ、もう終わりだ。プライベートでも、社会人としても。そんなふうに感じることはよくある。わたしたちは想定外の展開に弱く、脆く、傷つきやすい。思った通りに物事が進まないと、かなり意気消沈してしまう。
思った通りの人生なんて歩んできてはいないのに、己の思い込みにかなり支配されていて、そこから外れることに不寛容なのだ。大して緻密な計画など立ててはいないし、その実現のために奮闘してきたわけでもないくせに、簡単に落ち込む。
ほとんどの落胆は、無責任なものだ。もし、本当に終わってもいいくらいの気概を持って事に臨んでいるとしたら、いざ上手くいかなかったとしても、そんな反応にはならない。
この映画では3つの修羅場が描かれる。
妹の就職祝いのため、彼氏と一緒に、久しぶりに実家に帰ったら、母親から思わぬ報告を受けてしまう女性。
妊活中の夫婦に訪れた、ある一つの結果。夫は、妻からの報告を受け入れられずに、旅に出ようとする。
別れたはずの彼女が舞い戻り、再び同居人に。そんな状況なのに悩める小説家は、招かれざる女性客を連れて帰宅してしまう。
シチュエーションもヴィジョンもまるで違う。それぞれが生きるルールも全然異なる。
ただ、どの中心人物も、目の前の現実を素直に認めようとしないところは共通している。
ある時、それは意地である。
ある時、それは逃避である。
ある時、それはいい加減なだけである。
わたしたちはひとりひとり、常識が違う。希望も絶望も、人によって別のかたちをしている。だから厄介だし、めんどくさいし、軋轢や葛藤を生む。スムーズに進むことなんてないのだ。多かれ少なかれ。
逆に言えば、自身の意志決定だけでは、何処にも行けはしない。もし、人生が一冊の本だとしたら、ページをめくって次の局面を迎えるためには、自分以外の誰かの関与が必要になる。望むにせよ、望まないにせよ。
ひとりで出来ることなんて、そんなに沢山あるわけではない。
つまり、誰かの人生と誰かの人生は、常に交錯しているのだ。否応なく。
極めてユニークな着眼点から、3つの修羅場をゆるやかにつかみとるこの作品には、大きな川が流れている。目には見えない風が吹いているし、いくつかのダンスが目に飛び込んでくる。
ほんのちょっとしたことで、わたしたちの気分は変わる。流れに身を委ねることもできるし、なにかを浴びることもできるし、なぜかは知らないけれどなんとなくバウンスしてしまうことだってある。
しゃかりきになって能動態を維持するのは疲れるよ。結局なるようにしかならないのだから、どうしようもない時こそガードをおろして受動態で自分を試してみるのも一興。
すべてをコントロールすることなんて出来はしないのだとすれば、すべてをコントロールされることだってあるはずはないのだから。
そう。わたしたちは、自分の人生を支配もできないけれど、誰かに支配されることだってない。たぶん、神様だって、そんなにヒマじゃない。
可能性はいろいろある。何気ない一言がすべてを変えてくれることだってあるし、何かをひらめくことだってある。
すべては偶然の流れ込み、でも起きてしまえば、それは必然になる。
出逢いという言葉がある。すれ違いという言葉もある。人と人は、出逢うから、すれ違う。
人生というものの不思議を考えていたら、「触れ違い」という言葉が浮かんだ。
触れ違い。
わたしたちは、何かに触れる。誰かに触れる。世界に触れる。他人の人生に触れる。
触れるけれども、触れているのは一時(いっとき)のことで、また別れ、すれ違っていく。でも、それは、とってもかけがえのないことなんじゃないか。
めためたな修羅場を迎えたからこそ生まれる穏やかさもある。明日の天気に触れ違っていこうじゃないか。せっかくこの世に生まれてきたのだから。