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映画と人生を、一対一で滅却する。小橋めぐみ「アジアシネマ的感性」

 教養ではなく、たしなみでもなく、偏愛でもなく、依存でもなく。小橋めぐみは多くの人が接するように映画に接していない。ここ10年ほどの作品を中心に25本のアジア映画について綴った『アジアシネマ的感性』を読むと、数多の映画好きとは一線を画する付き合い方をしていることがわかる。書評家としての自分と、女優としての自分を両脇に配置し、読書や演技からはもたらされない自己露呈の場としての映画を、作品ごとに発見している。
 それぞれの映画に彼女の私生活や深層心理が呼応するが、それは露出でも露悪でもない。漏れ出るように無意識を追い込む。結果、露呈する何か。吐露ではなく、滲み出るのだ。着飾った主観が悦に入るシネエッセイの類とはまるで違う。映画作家には目もくれず、作品そのものに向き合う。一本の映画と一人の私のリレーションシップを追跡する。関係性の観察。一つの言葉に辿り着くまで、我が身を呈する。
 安易に昇華に流れない。むしろ混迷のまま、映画と人生を滅却しているように映る。「祭りではなく葬式」と、部屋の片付けを形容するくだりがある。想いも想い出も、一文章の中で滅却する姿勢。
 そうして浮かび上がるのは、地道に生きることのスリルや、真面目さのエロスだ。小橋めぐみの文章を読んでいると、こころもまた躰であることを感じる。非凡な書き手だ。

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