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わたしたちの耳は、新しくなる。わたしたちの目は、新しくなる。『はだかのゆめ』の唯野未歩子について。

たとえば、映画にもなった人気シリーズ『きのう、何食べた?』(テレビ東京系)のスーパーの店員。あるいは、今年放映された極めてミニマルな15分ドラマの秀作『それ忘れてくださいって言いましたけど。』(paravi)での西島秀俊の妻。

近年の唯野未歩子は、ワンポイントリリーフのような役どころが多く、もちろんその都度、彼女からしか生まれえない存在で屹立し、作品に風格をもたらしているが、さみしさは禁じえなかった。唯野未歩子と言えば、黒沢清監督の最も可憐な畢生作『大いなる幻影』でのヒロインがただただ忘れがたく、タイトルこそジャン・ルノワールだが、どこかロベルト・ロッセリーニの『イタリア旅行』を想起させもするその取り返しのつかない肌触りは、ひりひりと観た者の記憶に痕跡を残しているだろう。

あるいは、自らの小説を映画化した唯一の長編監督作である『三年身籠る』の、卓越したポップ性と、澄みきった視点のありよう。早すぎた真のポストモダニズムは、あれから16年を経て、いまもなお、きらきらと眩く呼吸している。唯野未歩子を待ちわびていたあなたも、まだきちんと唯野未歩子に出逢えていないあなたも、まずはこの『はだかのゆめ』に駆けつけてほしい。彼女はここで、2022年の日本映画を代表する名演を見せている。

限りなくドキュメンタリーに接近しているにもかかわらず、極めて音楽そのものでのある本作において、唯野未歩子は自身の死期を悟りつつ、亡き家族を想うひとりの女性を演じている。

特筆すべきは、その声である。高知、四万十川に近い自然に馴染む声でありながら、同時に、この世とあの世の狭間にある声。つまり、現実に根ざしたリアルな声でありながら、時空を越え浮遊している抽象的な声でもある。

わたしたちはいま、確かに何かを聴いている。そのことを反芻しようとすると、瞬く間に消えてしまうような、すべてが幻であったかのような、あたかも霊のような。淡くとりとめのない、無限=夢幻の声。

なんとかなりの老け役でもあるのだが、何かを上乗せしているようなことはないし、逆に何かを極端に減らしているわけでもなく、ただ境界線そのものとして其処に居るビジュアルも、わたしたちの常識をふっと乗り越えてしまっている。

唯野未歩子はスレンダーな身体の持ち主だが、そこから発せられるエネルギーは銀幕の隅から隅までを埋め尽くし、わたしたちの感覚を一歩先に進ませる。より繊細になる、とも言えるし、より大らかになる、とも言えるが、進化する、という表現が最もふさわしい。

わたしたちは、唯野未歩子をただ見つめることで、生きものとして進化するのだ。聴こえなかったものが聴こえるようになるし、見えなかったものが見えるようになる。

ほんとうだ。

わたしたちの耳は、新しくなる。

わたしたちの目は、新しくなる。

夢の中で裸になるように、躊躇なく、自分自身を解放する。

かなしみの、その先にある、大気と情緒と風とぬくもりを感じるために、劇場に足を運んでほしい。

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