いつか見た風景 88
「歪み加減の微調整」
人間の脳は進化の過程で、例えば自分たちに都合の良い物語を作り上げる事に見事に適応していったと言う。物語は仲間を作り、集団を育み、宗教や芸術を生み出した。科学に貢献し、文化を生成し、社会を構築した。それはやっぱり一人では寂しいから、一人では無力だから、一人では退屈だからだろうか。
スコッチィ・タカオ・ヒマナンデス
ありふれた日常を驚くほど自然に、何より他に比類がないほど魅力的に切り取って来た写真家のスティーブン・ショアはかつてこう言った。「スナップ写真が差異や反復を伴うと、記録とは異なる意味づけとなる」と。まるで私の脳内を闊歩する記憶の断片たちの差異や反復を見透かしているような発言だった。
最近撮った写真をまとめようとアルバムを引っ張り出して、どんな順番に貼っていこうか眺めていると、一枚一枚のスナップ写真たちが私に語りかけて来る。「思い出した? ワタシのこと」「だからワタシは一緒にいなかったって、思うんですけどね」「えーと、えーと、答え難いけど、ワタシはただのアレ、アレですから」と、それぞれの写真の登場人物たちが物語の新たな始まりを首を長くして待っていた。
そうかそうか、そう言う事か。私の脳内では、まさにこの瞬間に自分勝手な物語を物語ろうとしていた。特にこのアルバムへの大事な記憶の定着を心待ちにしている黒髪のショートヘアの彼女たちの差異と反復が、実際の記憶とは異なる意味づけを待っている事は明らかだった。それは脳の不思議のなせる技、老化も進化の一部と認知する私の残酷な運命と言えなくもない。
思い出せない。彼女の名前も、彼女がいなかった理由も、ただのアレが何なのかも、私は思い出せないでいた。そもそも彼女たちは同一人物なのか? そうじゃないかも知れないな。そうじゃないだろう。場所も時間もこんなにも離れているんだから。年齢だってバラバラじゃないか。だからって同じであっても不思議じゃないな。バラバラの彼女たちの中に、共通の何かでも見つかればいいんだからさ。だから思い切って物語ってみた。彼女たちと私の新たな関係を。新たな運命の共同体としての物語を。
「思い出した? ワタシのこと」
「覚えているさ、忘れる訳がないじゃないか。君は私の大事な初恋の人だから」
「違うわ、ワタシじゃない。でもいいの、ワタシに何を見てるか分かったから」
「だからワタシは一緒にはいなかったって、思うんですけど」
「思い出せないんだね。私たち二人の、二人の密かな深夜の彷徨いを…」
「どうして? だから夜中に二人でコンビニなんか彷徨っていませんよ」
「答え難いけど、ワタシはただのアレ、アレですから…」
「君の言うアレが仮に宇宙人を指していても、君との関係は変わらないさ」
「じゃあ、ワタシが火星人の仲間でも、それでも関係は変わらない?」
ゲシュタルト崩壊を引き起こしそうなるのを必死に堪え、私は3つの解を一つにまとめ上げる事に専念していた。つまりこういう事だ。ある晩の事、私は私の初恋の人と久しぶりに再会を果たし、夕食を共にして、少しばかりほろ酔い加減で深夜のコンビニを訪れていた。マカデミアクッキーとか抹茶のアイスクリームとか買い求めて、家に帰ってから二人で食べようとしていたんだよ。他愛もない話題で盛り上がってね。
「火星人がどうやら随分と前から地球人に成りすましているらしいだよ」「聞いた事ある、色々な調査研究のためとかでしょ」「火星への移住を本気で進めようとしている地球人たちの本質を探ろうとしているのかな」「最先端の宇宙開発技術の進み具合とかも気になるんじゃない?」「将来的に地球人と仲良くやっていけるかって問題もあるしね」「人によるわよね、やっぱりソコは、生活とか実際に一緒にやってみないと分からないでしょ」「アブダクションも結構あるって聞いたけど、ところで君はそういう経験はないの?」
アブダクションという言葉に、一瞬彼女の目の色が変わったような気がした。そうか、彼女にはその経験があるんだなと直感した。火星人に誘拐されて、もしかしたら一緒に生活していたとか、そういう経験をしたんじゃないかな。洗脳とかじゃなくて、心の底から火星人にシンパシーを感じて、それで彼らのために役に立つならって、私の初恋の彼女になりすまして、私を密かに探っていたのかも知れないな。
それにしても一体私の何を探ろうとしていたのだろうか、私の記憶のあやふや具合が、火星での生活に丁度いいとでも思っていたんだろうか。それはそれで良しとしようか。彼女と一緒に暮らせるならば、地球の老人としての歪んだアイデンティティをほんの少し微調整でもすれば何とかなるんじゃないかな。