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『父と 母と 私の旅』①父が「いき」「かえる」日
2016年12月1日に父が他界した。東京には友人もあまりなく、好きなお酒も止められて寂しい日々だったかと思うが、亡くなった今となっては自由にいつでも生まれ故郷の兵庫に飛んで、古くからの友人や弟と、美味しい酒を飲み交わせるようになったと思う。父には、感謝に堪えない。ただ。
愛と言う名を私にくれた。
突然亡くなった12月1日は不思議な日だった。
午前9時に父に「行ってくるね」と声をかけて、私は外出した。父は心筋梗塞や糖尿病を患っていて、数日前から特に具合が悪かったので、病院に連れて行かないとと思いつつも父は嫌がっていたので無理強いもできず、そのままだった。私も数日前から、父を1人家に残すことを心の中で若干不安に思いながら、毎日家を出発していた。
その数週間前に、信頼している姉さんが、「愛子、この人に会ってきて」と私に言う。「なんでこんなに、愛子に勧めるか分からんけど、とにかく会いに行ってきて」 と。
姉さんの言う私の会うべき人とは、橋本久仁彦さんと言って、日本各地で「円坐」という会で守人(もりびと)をなさっていた。
円坐とは、その日、その時、その場所で集うことを約束しあった者たち(坐衆)が、車座になって決められた時間を過ごすもの。
その始まりと終わりの刻限をつかさどり、そこで起こる全ての成り行きを見守るのが「守人(もりびと)」である。
長年、カウンセラーや非構成的エンカウンターグループの主宰を経て、橋本さんはエンカウンターグループを発展させた「円坐」の活動をなさっていた。
類まれに直感力の鋭い姉さんがそこまで私に言うなら、その方に会わないわけにはいかない。大阪在住のその方が、神奈川で円坐を開催される日に、私は参加を申し込んでいた。
父の具合が悪かったのは気になっていたが、どうしても、何があってもその日、私は橋本さんに会いに行かねばならないという気がしていたのだ。
橋本さんは、優しい顔をした初老の男性だった。
その円坐が終わった直後、父と似た年齢の橋本さんと、「はじめまして」の挨拶がてら、個人的にお話させていただいた。
ほんの数分であったと思う。
私が東南アジアで働いていて、数か月前に日本に帰ってきたことや、同居の父の最近の様子を含めた身の上話をさせていただいた。
すると「こんな可愛い娘が、海外から帰ってきて、自分と一緒に暮らしてくれてるだけで、お父さん嬉しくないわけないでぇ」と、橋本さんがおっしゃる。
本当ですかね、そうですかねぇ、と私は心底嬉しくて涙がにじんでいた。そしたら、橋本さんが、優しい顔でぎゅっと抱きしめてくれた。
私には、考えてみると「父」と呼べる存在の人がたくさんいる。世界中に。そしてそれらの人と、抵抗なくハグをしてきた。
けども、自分の父とは、物心ついてから、身体を触れた記憶がほとんどない。日本の頑固者の中年男らしく、寡黙で、ぶっきらぼうで、ぶきっちょな、父だった。
この数か月は、苦しそうに、布団から上半身を起こして身動き取れずじっと我慢している父の背中をさすることもせず、ただ私はじっと父の苦しそうな様を見つめていた。
後から分かったことだけれども、どうも、私がその父の年齢の橋本さんと涙して抱き合っていたその時刻 ― 午後1時頃 ― に、父は自宅で一人倒れていた。
ああそうかと、思った。
父の魂が、目の前の父に似た年齢の方の身体を通して、私に最後、会いにきてくれたのではないかと。
そして、抱きしめてくれたのではないかと。
一緒に暮らせた数か月、嬉しかったと、私に伝えてくれていたのではないか。
父は、自分自身の身体と自我では、とても、それができなかったのだ。
だから、父は、「よりまし」になる相手を探していた。自分と同年代で、不器用な自分の代わりに、最後の最後の瞬間に、
身を振り絞って、ありったけの彼の本音と私への愛を、代わりに伝えてくれる相手をだ。
自分が魂をそこに乗せて、自分の生涯かけた、あらん限りの愛を、伝えてくれる媒介を、探していたのだ。
魂同士の通信では、かくも見事な連携だった。
それに気づいたとき、ただただ私も嬉しく、父に対して感謝の気持ちが言葉では尽せず、
身体中が感謝の花で埋め尽くされたような気持ちになった。
その日、19時ごろ帰宅した母が倒れている父を発見して救急車を呼んだけれども、その時にはとっくに父は逝ってしまっていた。
不思議だ。私はその日、橋本さんの会に行かなければ、本来なら仕事がなく、家にいる予定だった。
家にいたら、私が救急車を呼んで、父は病院に運ばれていて、父は数日、生き延びられていたのかもしれない。
けれど、いつか終わる命。
遅かれ早かれやってくる死の瞬間を、どこでどう迎えたいのか・・・
父は、それを自分で選び取ったのではないか。
そして、私へは面と向かってでは決して発しなかっただろう言葉と抱擁を、
別の人の身体を通して、私に届けようとしてくれていたのだろう。
感謝している。とにかく、感謝という言葉以外にはもう、何も言葉が見つからない。
その日の夜19時半、「愛ちゃんもうお父さん、間に合わないかもしれない」と突如義兄に言われた電話で、もつれるように飛び乗った中央線。
電車の扉の横でうずくまって涙が流れながら「愛子、深呼吸して」と私を見透かしたようにメッセージをくれた姉さん。
電車の中でこれでもかというくらいに念じたのは、ただただ感謝。
家に帰って父と出逢って、その後、告別式の時まで父の姿を実際に目の前にしながら、目裏に見ながら見えるのは、眩いばかりの感謝の念。ありがとうありがとうありがとう。生まれてきてから今までの間。わたしは知っている、お父さんが赤ん坊の私をどれだけ可愛く目を細めながら抱っこしてくれていたかを。1年前に生まれた孫の心春(こはる)ちゃんの見つめるときの父の眼が、見たことのないほど優しかったから。何十年もこれまで苦労をしながら愚痴も言わず、家族を養い、守ってきてくれたこと。長い歳月の中で、父と娘という深いご縁をいただいて、この人生で一緒に過ごせたこと。
父は私を誇りに思ってくれていたらしい… どこか無鉄砲で、恐れを知らない私を、父は「自分に似ている」と思っていたのか、いつもどんな時も、味方になってくれていた。私が二十歳の時にアフガニスタンに行く時でさえ。他の家族中が反対したのに父だけは、「自分の思うように生きたらええ」と、私を後押ししてくれた。男親としては珍しいあり方だったと思う。亡くなる数年前から、私が海外に出て時々日本に帰ってくるときには、私の大好物の卵焼きをいつも大量に作ってくれていた。私が父の高血圧を気にして父にご飯を作るよりも、父は自分が卵焼きを作って私に食べさせている方が、嬉しそうだった。
もう二度と目を開けない父の顔は、美しかった。ただただ光そのものとしか言いようがない、眩しかった。身体中と辺り一帯に、感謝の花が、色とりどりに美しく咲く。満開のその花の中で、幸せというものを知った。
「帰命無量壽如来 南無不可思議光」
無量壽如来に帰命し 不可思議光に南無したてまつる
(限りない無量の寿命を持っておられる、如来
その如来を信じ
不思議な光明に、おしたがいします
やがてその光が、わが光となる身になります)
どんな人間でも、どんな状態でも、一瞬にして眩い光の中に身を浸すことは可能だということ…
葬儀でもこれでもかというほど沢山涙を流したし、今も時々涙がこぼれる。けれど悲しいというよりも、とにかく感謝と安堵が大きい、というのが、背伸びしない今の正直な心持ち。
父は、ここ数年は思うようにならない体の痛みに耐えていたけれども、今はどこへでも自由に飛べるのだろうと思う、空を見ても父を感じるし、風を感じても、葉っぱを見ても、父を感じる。父は自由になった。そして、あまり寂しさは感じない。
足が弱った母との二人暮らしになって、現実の生活も日ごと予想だにしない展開へ目まぐるしく変わっているけれども、これからどのような方向へ船は進むのだろうか、いまは全く未知の大海原に出て、新たな世界への航海が始まっているような気持ち。
「誰もがたった一人、小船で揺られて、死へ向かっていく――下降の一途を辿る、ただ、一人で」
父が亡くなったあの日、私を抱きしめてくれた橋本さんが、円坐の場で話されていた言葉が思い出される。
孤独ではあるけれども、誰もがその孤独を持つという絶対的な繋がり。
さあ、われら、何をしようかね、幸せに生きようじゃないか。
帆に父の風を受けての、これは新たな、清々しい冒険。
なぜ、私が日本に戻ってきたのか分かった。
かくも精緻に布置された事象の連続。そして、危機に陥るように見えても、茨の道は上手に潜り抜けられるようにいつも一本の道が用意されている。真に妙、と言わざるを得ない。
「これをアレンジしたのは誰か」
その問いを、何度も笑ってしまいながら心の中で呟く。
未来は未知か。いや、在りたい未来を思い描き、心で観ることができる。観る――それは感じること。絶望的な闇の闇の闇を見つめて、眩い光を感じ取ること。
“生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し” (空海)
無明の私達には「光を見る、闇を見る」、そのいずれも見えないと言われるが。
“帰命無量壽如来” (親鸞)
一瞬にてはかり知れない光の中に身を浸すことは可能ということ。
感謝。深く深く、感謝。
(2016年12月末に書いたものを再編集しました)
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(②へ続きます)
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