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6駅電車に乗ることができた日

今日、電車に乗った。たったの6駅、18分。それだけでとっても嬉しくて嬉しくて、泣けてきた。電車に一人で乗れただけでこんなに感動したのは間違いなく人生で初めてだと思う。窓からは温かい太陽の光が差し込んでいて、いつも見ていた風景が優しくゆっくりと流れていった。


体調がおかしい

遡ることちょうど2年前の秋。休みの日に友達と3人でランチしていると、なんだかぼーっとしてきて座っているのがしんどくなってきた。『あれ?気のせい?』と思ったけど,、どうもそうじゃなかった。「なんかしんどいかも…」と言って少しの間、体を横にした。お店が閉まる時間になっても中々体調は戻らず、近くの公園までがんばって歩いて休んだ。友達も一緒に付き合ってくれて、なんとか夜になる前には一人で帰れそうなくらいにはなった。

友達と別れて、わたしは地下鉄とJRの電車を乗って帰る場所に居たのだが、なんだか電車に乗るのが嫌だった。特に地下鉄。換気の悪そうな地下に潜っていって、人の密集している電車に乗るのはすごく嫌だった。だから2駅ほど歩いて地下鉄を避けた。2駅歩ける体力はあるのに、電車には乗れない。自分でも不思議に思いながらも、JRにはなんとか乗ることができた。

その日の出来事がきっかけで、自分の体調がおかしいことに気が付いた。そのときわたしは知的障がい者のグループホームで、異常な勤務体制の中で働いていた。14時に出勤し、退勤は翌日朝10時。20時間拘束されて一応の休憩時間は夜中の5時間あったけれど、その場を離れられる訳ではなく利用者さんに何かあれば対応しなければならない。みんなが寝ている同じフロアで5時間の仮眠を取っていたが、当然ながら家のように熟睡なんてできるはずはなく、感覚としては普段の1~2割くらいの眠りの深さだった。家に帰って、太陽が一番高い位置に居る頃にカーテンを閉めて夕方まで眠る。重たい体を起こしてごはんを食べて、夜12時くらいにまた眠る。しかも必ずしもこういったサイクルが続くわけではなく、連泊というものもあって、14時に入って翌日10時に上がり、またすぐ14時に入って翌日10時まで働く、という信じられないシフトが組まれていることも普通にあった。今考えるとよくこんな生活ができていたなとぞっとするのだが、こういうシフトを普通に何の支障もなくこなしている人たちがたくさんいた。やはり体質が大きく影響しているようで、こんなことが普通に出来る体質の人と、絶対にやっちゃいけない体質の人がいるらしい。言うまでもなく、わたしは後者だったようだ。


おそらく、この夜勤の生活がわたしの体を1年半くらいかけて少しずつ蝕んでいっていた。自律神経が乱れた。そういえば、体調不良はあの日だけではなかった。外出先で『しんどいな』と思って立っていられなくなったことは数回あったし(時期が離れていたので繋げていなかった)、いつでもどこでも寝られる神経の図太いのが自慢だったのに、布団に入っても何時間も眠れないことがあったり、夜中に数回目覚めることがあったりした。深刻に捉えていなかっただけで、わたしの体はちゃんと少しずつサインを出していたのだ。

自分が言ったことをフォローする訳ではないが、今さら元職場の勤務体制をどうこう言うつもりは一切ない。応募するときに聞かされていたし、仕方がないと言いたくはないが、福祉の現場ではお金も人も全く足りていない現状がある。目の前の大事な人たちのために、自ら身を粉にして働いている人たちがたくさんいて、みんなでなんとか必死に毎日を繋いでいる状況だった。それに休憩時間は5時間だったけれど、その他の時間は常に忙しくしているのかと言われれば全然そうではなく、利用者さんと一緒にダラダラTVを見たりお喋りをしたりする時間もたくさんあった。だから仕事自体が体力的にそこまでキツい訳ではなく、その「めちゃくちゃメリハリのない環境」が自分に合っているかどうか、というのがとても大きいと思う。


急に来た「限界」

体調不良を自覚してからすぐに夜勤が大きな原因だと思ったので、上司に言って次のシフトから特別に日勤体制で働かせてもらうことになった。でも、あと3回勤務すれば日勤に切り替わる、というところでわたしに限界がきた。普通に働いていても体はだるくて重い。そんな状態で心に余裕が持てるはずがなく(この仕事で心の余裕はめちゃくちゃ重要)、普段ならできることができなくなった。

あー、もう無理だ…。

そう思って、「すみませんが次の勤務から入ることができません」と迷惑をかけるのを承知の上で上司に休ませてもらえるようお願いした。そのときは少し休むつもりでいたけれど、結局一旦そのまま退職することになった。


「もう限界だ」そう自覚すると、不思議と体は今までよりもずっと調子が悪くなった。座っているのもしんどかったり、声に力がなくてうまく喋れなかったり。本当に、張り詰めた糸がプツンと切れたようだった。その日からとにかく体を休めた。たくさん眠った。そのときは実家の近くで一人暮らしをしていたのだが、週の半分くらい実家に帰って療養した。体調を気遣ってくれ、身の回りの世話をしてくれる両親に心底感謝した。


電車に、乗れない

時々、文章を書く仕事をさせてもらっていたのだが、それはがんばって続けたくて、体調が悪くなってからもインタビューをしに出かけたりもしていた。その日は相手の都合で朝8時に事務所に来て欲しいと言われた。目的地までは電車で8駅、乗車時間は20分くらい。朝早めの電車、出勤ラッシュ。嫌な感じがしたけれど、あまり考えないようにした。

ホームに着くとまぁまぁな数の人たちが居る。来る電車にもまぁまぁな数の人たちが乗っている。ギリギリ座れないくらいの感じ。進まない気持ちのままホームの列に並ぶ。来た電車に乗ったが、やっぱり座れなかった。手すりを持ちながら立っていると…

動悸が激しくなってきて、貧血のように立っているのがつらい。

その場でしゃがんでしまいそうになるのをぐっと堪えた。『やばい、やばい、次の駅で降りよう…』そう思ってからの次の駅ってめちゃくちゃ遠い。実際は2~3分くらいだと思う。そのときの不安な気持ちが今も少しトラウマになっている。

やっとドアが開いて、ふらつきながらなんとかホームのベンチにたどり着いた。何度も深呼吸をする。約束の時間よりも少し余裕を持って家を出ていたけれど、それから何回電車が来てもどうしても乗ることができなかった。時間が経つにつれて、電車が混んでくるのもこわかった。その日、わたしは諦めてキャンセルの連絡をし、その駅を出てタクシーに乗り、また来た駅まで帰った(駅に自転車を停めていたから)。「駅から駅までなら何で電車使わないの?」ってタクシーの運転手さんはとても不思議そうにしていた(ように見えた)。


その日から、わたしは電車に乗れなくなった。


休む

最初の頃に1度だけ病院に行って、医師に「夜勤の仕事をしているので自律神経が乱れているのだと思う」と言うと「その自己分析は正しい」と言われた。簡単なやり取りだけだったのでその医師をあまり信用していないのだけど、まぁ自律神経系がおかしくなっている感じはするので、できる限り規則正しい生活をしたり、運動をして体を動かしたりしてみた。予定を入れるのは「行けなかったらどうしよう」「外でしんどくなったらどうしよう」と自分へのプレッシャーになるのであまり入れず、1ヶ月に1日か2日くらい事情を知っている友達と会った。そのときのわたしにとっては、月に1度のその予定がとても不安で、前の日からコンディションを整えて、相手にも「体調が良くなかったらドタキャンするかもだけどごめんね」って自分が安心するために伝えた。電車に乗れないので、わたしの家の近所まで友達は来てくれた。そんな風にして会ってくれる友達が何人かいて、本当に有り難かった。こもりがちなわたしにとって、人と話せることはとても助けになった。


少しずつ時間をかけて、体調は徐々に回復していった。退職してから4ヶ月後には、近所でバイトができるようになった。4ヶ月かかったと文字にすれば長い感じもするが、1年半もの間、体にムチ打ちながら崩れていった体調が4ヶ月で回復したのなら早い方かもしれないと思った。実際、過ごしていると4ヶ月なんてあっという間だった。そしていろいろと思うところがあり、退職してから6ヶ月後、働いていた知的障がい者のグループホームの仕事に復帰させてもらうことになった(もちろん日勤勤務で)。


復帰してまでも、やりたかったこと

泊まりで勤務していたときの半分以下の時間で働かせてもらい、利用者さんとの関わりが薄くなって物足りなさを感じながらも自分の役割を全うしようと、働いた。前に働いたいたときにできなかったこと、やり遂げられなかったこと、納得できていなかったこと、それと向き合いたかった。そのために復帰した。でも…。

結論から言うと、わたしはもう一度、退職した。復帰してから1年と3ヶ月。日勤勤務になって体は楽になったけれど、わたしの前に大きな課題が出てきた。対応したことのないような難しい課題だった。それは、利用者さんの他害行為。その人の中の不安が大きくなると、他の利用者さんや職員に暴力をふるってしまう。今年の1月頃から勃発して、6月くらいまでがんばって必死で向き合った。その人に寄り添おうとしたり、具体的にそれが起きないように対策をしたり。でも、わたしには自分の答えは見つけられなかった。その人との距離の保ち方がわからなくて、その人が荒れる度にわたしの心も疲弊していった。

そのときも、わたしの心の中で「プツン」と音が聞こえたような気がする。糸が切れてからも3ヶ月は働いていたが、心は完全に死んだままだった。必要最低限のことしかしない、もう問題に深入りはしない、そんな風に働いた。家を出て職場に行くのがすごく嫌だった。行きたくない、行きたくない、行きたくない。でも、『辞めよう』ってどうしても思えなかった。それは周りに迷惑をかけるからではない。自分の中で納得がいかなかった。“復帰してまでやりたかったことは果たせたのか?”、この問いに答えられなかったから。行きたくない、それでも足を職場に向かわせるためには、心を麻痺させるしか、殺すしかなかった。

民宿のおばあちゃんになりたい

そんな風にして2ヶ月くらい働いた頃。ずーっと心はモヤモヤしているままで、少しでもそれをスッキリさせたくて自分自身と向き合う日々。自分は、本当はどうしたいのか。やめたいのかやめたくないのか。

そんなとき、昔言ってた自分の言葉を思い出した。

「将来、民宿のおばあちゃんみたいになりたい」。

4年前、お金を貯めるために某有名ホテルの宴会場で馬車馬のように働きまくっていた頃、そのときはすごく充実した楽しい時間を過ごしたのだが、「左様でございます」のような普段絶対に使わない言葉を使ってガッチガチの仮面をかぶりながらする接客に違和感を持ち、仮面なんてかぶらずに、わたしがわたしとしてできる仕事をしたい、そういう意味で民宿のおばあちゃんのようになりたいと思った。お客さんでも自分の友達でも、同じようにもてなすことのできるような、そんな民宿のおばあちゃんに憧れた。そのときの想いは、案外今も同じ気持ちだなと思った。別に民宿がやりたい訳ではないけれど、わたしがわたしとして生きたい、仕事がしたい。知的障がい者支援の仕事も、そんな気持ちもあって選んだ(それだけではないが)。わたしがわたしとして生きる、仕事をする。わたしはこうやっていろんなことを経験しながら、そんなおばあちゃんに近づいていくのだなと、そのときふと思った。それならば答えを今見つける必要は無いのではないか。というか、今見つかるような答えなんて無いのではないか。そう思ったとき、辞めるか辞めないか、なんかどっちでもいいような気がした。ならば、今苦しみながら仕事を続けるのは辞めよう、そう思った。そして心が死んでから約3ヶ月で、ようやくわたしは2回目の退職をちゃんと決意することができた。


振り返した不調

しかし、心を殺したその3ヶ月間がダメだった。その間、自分の気持ちに嘘をついて仕事に行き続けたわたし。わたしはストレスが溜まるとコーヒーに依存してしまう傾向がある。すごくある。飲みたくもないのに淹れてしまう。とりあえず手元に置いておきたくなる。それがお茶でも紅茶でも全然ダメで、必ずコーヒーでないといけない。その理由は追々書きたいと思うが、とりあえずその3ヶ月間でコーヒーをたくさん飲んだ。そして退職の日まであと20日というところで、またあの症状が出た(前述していないが、自律神経の乱れにはカフェインやストレスが大きく関係している)。外出先から電車で自宅に帰る途中、駅の中でふらついて、なんとかホームのベンチまでたどり着いたが、座っているだけなのに全力疾走したかのような激しい動悸がする。血圧が上がりすぎて血管が破裂したらどうしようかと思った。意識が遠のきそうになった。動悸が激しくなったり落ち着いたり、を繰り返したが、やはりどうしても目の前に来る電車に乗ることができず何回も見送った。30分待っても無理だったので、もう諦めてタクシーに乗ることにした。電車だと500円くらいで自宅まで帰れるところを、タクシーで1万円以上かけてVIPに帰った。タクシーの運転手さんが優しくて泣きそうになった。


その日以降も、2回くらい電車に乗って職場に行った。そのときは、その日のことを“1日だけ振り返した不調”だと思っていた。でも、数日経つと寝起きの感覚に違和感があって、眠りが浅く感じたり、動悸が激しくなったりするようになった。

あー、完全に振り返したな。

仕事も何回か休ませてもらった。そんなにすぐに体調が元に戻ると思えなかったので、退職日まであと2週間のところで、残りのシフトを全てナシにしてもらい退職となった。それが今年の9月のこと。


完全に振り返したとはいえ、夜勤をしていた訳ではないので1ヶ月くらいで回復すると思っていた。ところが意外とダラダラと長引いている。毎日散歩に行ったり一人で近所のカフェに行ったりして様子を見ている。定期的に書かせてもらっている文章の仕事があるときは、打ち込むものがあって助けられた。


体調不良のおかげで、職場の人たちにほとんど挨拶をせずに去ることになってしまった。『時間はたっぷりある。改めてまた行こう』と思い、そのときに持っていくため、自分の好きなケーキ屋さんの焼き菓子の詰め合わせをネットで取り寄せた。買ったのは9月末、賞味期限は12月上旬。期限までたっぷりと余裕のあるものを買ったはずだったのに、結局行くことができず、期限が切れるギリギリに職場の先輩に託して持って行ってもらった。


毎日毎日、一人で散歩するか、買い物に行くか、自転車を走らせるか、時々リモートで友達と話すか。友達と話せるときは気分が上がるけれど、一人で何かを考えるときは不安がおそってくる。このまま何年も引きこもりになってしまうんじゃないだろうか。もう電車には乗れないのだろうか。飛行機なんてもっと無理だなぁ。もう一度行きたい国があったのになぁ。明日も同じような一日が過ぎていくのだろうか。そんな風に落ち込む日も少なくなかった。


そうだ、京都へ行こう

そして今日。なんか行ける気がした。割とぐっすり眠れた感じもするし、気分も上向きだ。あまり何も考えずに家を出て駅に向かった。わたしの頭の中には「散歩のついでに京都へ~」と何かの音楽に乗せてそんな言葉が勝手に流れていた。いつもの散歩に出かけるんだ。そのついでに、あくまでもついでに、京都へ行ってみてもいいかな、電車で。そんな風に少し動揺している自分の心を見ないふりしながら、駅に向かって歩いた。

わたしの住んでいるところから京都駅までは電車1本で18分。反対方面へ行く電車よりも人が少なくて乗りやすい。実際には京都まで行けるかわからないので、次の駅までの切符を買って、もし行くことができたら、のりこし精算をすることにした。「別に途中の駅で降りてもいいんだよ」って自分に言ってあげた。

ホームまで来た。電車の時間が近づくにつれて、心臓がドキドキしてるのがわかった。気を紛らわせるために、大好きなスピッツの曲をきいた。いつもの聴き慣れた声がわたしを少し安心させてくれる。

電車が来た。中はガラガラだった。ホームにいる他の人と同じように、普通に、電車に乗った。すぐに降りられるように、ドアに一番近い席に座った。そしてドアが閉まって、ついに電車が動き出した。


いつも散歩のときに見ていた近所の景色が、いつも見ていないようなスピードで窓をどんどん流れていく。心臓はドキドキしていなかった。気が付けばもう次の駅に着いていたけど、わたしは降りずに京都駅へ向かった。

浪人しているときと大学生のときの5年間、この電車に乗って通学した。あー、この風景、この道、好きだな。また見れてよかったな。そう思うと不思議と涙が溢れてきてた。昨日までは乗れなかった電車に、今日乗ることができた。できなかったことができるようになると、嬉しい。できることが増えることに価値があるのではなく、そう感じる瞬間が豊かだなって思う。今まで助けてくれた家族や友達の顔が浮かんだ。電車に乗るだけで、わたしはいろんな人に生かされてるんだなぁと実感した。あー、嬉しい。嬉しい。窓に流れる景色がとにかく温かくて幸福感に満たされた。


京都駅に降り立つことができた。ここは京都だ。数え切れないくらい何度も来ていた場所なのに、新鮮でたまらない。『京都駅といえば…』と外へ出て一人でニヤつきながら初めて京都タワーの写真を撮った。そしていつも助けてくれている身近な人に「見て!京都来たよ!」とその写真を送った。


京都にあまり長居することなく、また自宅の最寄り駅を目指して切符を買った。今度は一気に目的の駅まで買うことにあまり抵抗はなかった。

人の少ない車両を選びながら、帰りの電車に乗る。日差しが夕日に変わる頃で、またうっとりしてしまった。次第に普段の見慣れた景色に近づいていき、帰りはあっという間に自宅の最寄り駅に到着。駅を出て、家に向かって歩き出す。いつもの散歩コースが、全然違った景色に見える。


こんなにも感動的で、こんなにも普通な景色

まるで海外を旅しているかのような気分だった。この先どうなるかわからない。でも、それでも、行ってみる。無事に行けたときの安堵感。挑戦できたことへの誇り。たったの6駅、いつもの電車。それに乗れたことがこんなにも嬉しくて、そこから見える景色が一段と好きになった。この気持ちを味わうための体調不良だったんじゃないだろうか、とさえ思えてしまうような豊かな感覚。こんなにも感動的で、こんなにも普通な、いつもの風景。

幸せは、すぐそこにあった。いつもの電車に乗るだけでこんなにも感動できるんだ。そう思うと、人生って幸せだらけなんじゃないだろうか。


きっとわたしはまた普通に、何不自由なく電車に乗れるようになるのだと思う。そして今日のこの気持ちも少しずつ忘れていくのだと思う。それは残念な気もするけれど、普通のことのようにも思う。でも時々思い出したい。そしてできればこの気持ちに立ち戻りたい。きっと同じ気持ちにはならなくても、大事なことを忘れずに前に進めそうな気がする。

京都タワー


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