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うまれた怒りの為しカタ、と、アウフヘーベン、について紐解いたばかりの知識をまとめた。

怒り、は、どこからともなくやってくる。
ざわついて、バクバクして、笑顔のカタチが歪んでしまう。

そんな負の感情をいつまでも抱え込みたくもないので、怒りを人知れず沈めてしまう方法を学んでしまう人もいる。

おなじ現象でも、立場や視点が異なれば、怒る人、なんとも思わない人、喜んでる人、はたまた、いつもならば受け流すようなことも、自分の中の余裕のあるなしに左右されたり。うみだされる感情の発端は、さまざま。

貴重なめぐりあい。

そう考えると、怒り、が湧くことにも意味があるように思えてくる。

感情が動く、ってことは、理解してくれる人は数は少ないかもしれないし、実は潜在的に多いかもしれないけれど、ほかの人はともかく、少なくとも自分の中で大事にしている何かを軽んじられている、って感じた時。どうしてわかってくれないんだ、とか、どうせわからない、ってあきらめるより、次は自分だったらこうしたい、や、する、のポジティブな自分の行く道の糧として昇華させたい。自分の中で大事で譲れないのならば。そして、それが全体にとってめぐみをもたらす必要なものだと信じるならば。

なので、感じた怒り、は、殺さず、消さず、己の過ちとして認めて、二度と同じ構図を繰り返さないよう決して忘れちゃいけないんだと思う。

とはいえ、ついこないだまでのわたしは、その怒り、をストレートにぶつけすぎて効力を欠いていたな、と、反省し、行動パターンをマイナーチェンジ。

その場で消化しすぎたんです。
思ったことはすきあらばその場で戦わせてました。
大事、だったから。
そしてそれしか方法を知らなかったし、バランスが悪かったんですね。

現象として発露したものを怒る、より、次の巡りで再現しないようにするにはどうしたらいいか。エネルギーの矛先を変えるだけで、これからツクラレル未来のカタチがどんどん変わっていくように思います。

正反対の性質のものの、どちらか一方の意見を優勢、とするのではなくて、正(テーゼ)、反(アンチテーゼ)、どちらの意見も否定せず、拾いあげまたは捨てて合(ジンテーゼ)わせる。全てのものは己のうちに矛盾を含んでおり、それによって必然的に己と対立するものを生み出す。生み出したものと生み出されたものは互いに対立しあうが(ここに優劣関係はない)、同時にまさにその対立によって互いに結びついている。(相互媒介)

議論の世界はこうであったほうがいい。
多様な価値観を末端では認めつつ、全体の意見としてひとつ、の結論を出そうとしたときにどうしても敵味方の対極をうみだしつづけ、議論が一方通行になり、自分の背後には影ができてしまうのがもどかしいですね。

ちなみに、このヘーゲルの弁証法的論理学の核の部分、相反するものとの統合を”アウフヘーベン”というそうで、民主主義のカタチを模索中の今の日本で、アウフヘーベン、という単語が良きに広まったらいいな、と思った矢先に、某都知事がちょっと自分軸により過ぎな誤った使い方を広めてくだすったので、誤用されるよりもう少し早めに社会へ楔が刺せるようにがんばりたいな、と、思った今日この頃です。知識、は、実践を伴いはじめて智慧となる。日々是精進。


引用)アウフヘーベン(止揚)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A2%E6%8F%9A

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秋の土用入り、日常生活で蓄積したケガレ流しに、キモチイイ音楽とアートを。この規模でこのアーティストがみられるのは超贅沢なセッティング。

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