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【小説】烏有へお還り 第14話

   第14話

「では、この問題はどうでしょう」

 言いながら、数学の教師が手元の機械を操作した。黒板の前に垂れ下がったスクリーンで、映像が新しく切り替わる。

「さっきの問題はみんなわかったよね。考え方は一緒だよ」

 志穂の死から二週間が経っていた。あの後、保護者を集めた説明会があり、その次の日には生徒たちの全校集会が行われた。しかしそこでは校長から命の大切さについての話があっただけで、志穂が亡くなった詳しい経緯は語られなかった。

 それ以降は授業がつぶされることもなく、普段通りの日課を過ごしている。特に、志穂のことを知らない他の学年の生徒たちにとってはなんの影響も見られなかった。

 柚果のクラスでも、一部を除いていつもの賑やかさが戻ってきた。志穂を失った隣のクラスは、元通りになるまでにはまだ時間がかかりそうだったが、それでも通常の生活に戻りつつある。

「さあ、どうかな。ヒントは、さっきの問題を見直すこと」

 数学の教師が生徒たちの間を練り歩き、一人一人のノートを覗き込む。

「あー、惜しい。でも、ここまではいいよ」

 数学の教師はまだ小さい子供を二人抱える比較的若い女性で、柚果にとっては去年の担任だった。

 快活な声は、生徒の心を引き立てた。親しみやすい彼女は、特に女生徒たちから人気が高い。去年の柚果のクラスの雰囲気が良かったのは、彼女のせいかもしれない。

「もう解けたよって人は手を挙げて」

 柚果は頭の中に導き出した回答を急いで書き終え、シャーペンを置いた。そっと手を挙げながら周囲を見回すと、他にも解けた人は全体の五分の一ほどだった。

「まだ少ないなぁ。もうちょっと時間をあげるから、頑張ってみて。解けた人からヒントをもらってもいいよ」

 柚果の右隣の席の男子も解けたようだった。反対側の隣の席は亜美だ。視線に気づいたのか柚果をちらりと見て、ぷいと顔を背ける。助けを借りるつもりはないのだろう。

 柚果が解けたことが面白くないのか、亜美は隣の子とおしゃべりを始めた。数学教師が遠くから注意をする。

「ちょっとちょっと、諦めないで頑張ってよ」
「だってー、わかんないもん」
「そしたら、ほら、筧さんに聞いてみな」

 教師が柚果に水を向けた。亜美が「えー」と不満の声をあげ、柚果の耳が赤くなる。手を挙げたことを後悔した。

 ふと、遠くで誰かの叫び声のようなものが聞こえたような気がした。内容までは聞き取れないが、声の響きのようなものだけが伝わってくる。

 柚果が耳を澄ませると、再び声が聞こえた。何人かの生徒たちが驚いたように顔を上げる。一番後ろの席の生徒は、怪訝な顔で後ろの壁を見つめている。

「どうしたの」

 教師が言いかけた途端、壁の向こうから悲鳴が聞こえてきた。教室中が目を瞠り、腰を浮かす者もいる。



「お母さん、落ち着いて下さい!」



 廊下から声がした。ガタンガタンと大きな音がする。教師が慌てたように扉に向かった。


「ちょっと聞きたいだけなんです!」


 開いた扉から、引き絞るような女性の声が聞こえてきた。冷静さを失った大人の声が、柚果の胸をえぐる。恐怖にも似た不穏な空気が教室に広がった。


「落ち着いて下さい、高田さん。別のお部屋でお話をお伺いしますから」


 廊下の向こうへ連れていかれそうになるのを、一人の女性が必死に抵抗している。その両肩を抑えているのは柚果の担任だ。


「ちゃんと教えて欲しいんです!」


 女性が涙声でそう訴えた。驚き立ち尽くしていた数学教師が、慌てて廊下に飛び出すと、柚果の担任と共に女性の腕を取り、廊下の向こうへ誘導する。

「お願いします! ただ、聞きたいだけなんです!」

 泣き叫ぶ女性の声は遠ざかり、階段の奥へと消えていった。
 教師のいなくなった教室内は騒然となった。扉の近くの男子が、教師たちを追いかけるように廊下に出て、様子を窺っている。

 柚果は胸を抑えた。女性の泣き叫ぶ声が耳の奥に貼りついている。顔はよく見えなかったが、その声から母と同じくらいの年齢だとわかった。



『落ち着いて下さい、高田さん』



 確かにそう言っていた。

『あたし高田志穂。よろしくね』

 くしゃっと歪んだ笑顔が浮かぶ。その目はいつも柚果ではなく、どこか別を向いている。まるで、自分を助けてくれるなにかを求めているようにも思えた。

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