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【小説】烏有へお還り 第6話
第6話
「はい、みんな注目」
体育教師が両手をパンと打ち合わせた。女生徒たちがひそやかなおしゃべりをやめ、顔を向ける。
「これからマットを使って倒立前転をしていきたいんだけど、今日はその前に、まず倒立の練習をします。この中で、壁倒立ならできるよって人、手を挙げて」
体育座りの女生徒のうち、全体の四分の一くらいの手がパラパラと上がった。続けて、肘を曲げたままの自信なさげな手がいくつか後に続く。
「いいじゃん、思ってたより多い」
教師がくだけた口調で言った。緊張の解けた生徒たちが囁くように笑う。
柚果の学年を担当する体育の教師は、大学を卒業したばかりの若い女性だ。ひざ丈のパンツから伸びる筋肉質のふくらはぎは俊敏そうで、学生の時は水泳をしていたらしい。
「まず、手を床につけた時、頭をしっかり入れる。そうじゃないと、ほら、蹴ってもこんな風に高く上がらないからね」
教師が自ら悪いお手本を見せてから、
「ちょっとやってみて」
目の前にいた運動部の女子を二人立たせ、そのうちの一人にデモンストレーションをさせる。彼女はマットに手をつき、両足を蹴り上げた。
「こうやって、相手の足を持ってあげる」
宙に上がった足首は吸い込まれるように教師の手のひらに収まった。
「もう一人は、勢いが足りなかった時に、横から手で補助してあげる」
教師の言葉に、もう一人の女子が形ばかり補助をする人の動きをした。そのコミカルな動きに、クラスメイトが弾かれたように笑い出す。
柚果は笑いに混ざる余裕もなく、そっと唇を噛みしめた。マット運動はそれほど苦手ではない。倒立だって、補助があれば大丈夫だ。
それよりもひとつ気がかりなことが、心の中で渦を巻いていた。
「はい、それじゃあ、好きな者同士で三人組を作って」
予感は的中した。女生徒たちが一斉に腰を上げる中、柚果はのろのろと立ち上がった。快活な女子たちが目の前で手を取り合い、どんどんグループを作っていく。
体育の授業は男女に分けられ、二クラス合同で行われる。体育館に集められたおよそ三十人ほどの女子たちのうち、半数は隣のクラスで、名前もよく知らなかった。
「三人組が作れた人は座って」
体育教師の声に、半分ほどが腰を下ろす。残っている中に、比較的親しい顔を見つけた。伊藤さんと野口さん。二人とも文化部に所属していて、大人しく目立たないタイプだ。教室で何度か話したことがある。
そちらへ歩み寄ろうとした途端、別の女子がパッと駆け寄り、二人の肩に触れた。三人が顔を見合わせて座る。柚果の胸に絶望が広がった。
まだグループを作れていないのはわずかだった。残っている人たちを目で数える。
ぽつんと一人で立ち尽くしているのは、まるで晒し者だった。周囲の視線を感じて汗が噴き出す。最後の一人になりたくない。そう思っても、柚果は最初の場所から動くこともできない。
助けを求めるように体育教師に目をやると、ふいにポンと肩を叩かれた。
「ねえ、一緒に組もう」
そう声をかけてきたのは隣のクラスの女子で、一度も話したことのない子だった。体調が悪いのかと思うほど真っ白い肌をしている。そばかすが目立つ鼻にくしゃっとしわを寄せ、人懐っこい様子で柚果に微笑みかける。
「あ、あの……」
よく見ると、彼女の後ろには二人の女子が立っていた。二人は明らかに不機嫌そうで、柚果とそばかすの女の子に冷ややかな目線を向けている。
「あっちにもう一人残ってる子がいるね。ちょっと待って、声をかけてくる」
止める間もなく、彼女が飛んで行く。連れてこられた戸惑い顔の女子は柚果と同じクラスだった。普段仲良くしている相手が今日は体調不良で、体育を見学しているようだ。
「それじゃ、佐藤さんと飯田さん、この子を入れてあげて。あたしたちは残っちゃったし、二人でいいよね」
と言って、彼女が柚果の腕に触れる。佐藤、飯田と呼ばれた二人はむすっとした顔のまま、連れてこられた女子と共に座る。柚果も腕を引かれるがままに腰を下ろした。
「はい、みんな三人組になったね。それじゃ、ぶつからないように広がって」
体育教師の声に、女子たちが立ち上がり、移動を始める。
「あたし志穂っていうの。高田志穂。よろしくね」
柚果に顔を寄せて囁くように言うと、志穂は目を細め、顔をくしゃっと歪ませて微笑んだ。