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【小説】烏有へお還り 第13話

   第13話

 雨足が強くなった。風の吹いてくる方向へ傘を向けても、膝から下がびしょびしょになってしまう。

 サブバックの持ち手が肘の内側に食い込んで痛かった。けれども、傘を持っているので反対の手に持ち替えることができない。柚果は家に向かって足を速めた。

 長いようで、短い一日だった。担任から志穂の死の知らせを受けた朝から、どのように時間を過ごしたのか、あまりよく覚えていない。


『昨夜、隣のクラスの高田志穂さんが亡くなりました』


 担任の言葉に、クラス内は騒然となった。

「えっ」「嘘!」と叫ぶ声に、「誰?」と尋ねる声が混じる。ざわめきは広がり、教室内が騒がしくなっても、教師が注意する気配はなかった。苦い顔のまま言葉を失っている。

 誰かがわっと泣き出した。周囲の視線が集まる。それにつられたように、別のところからもすすり泣く声が聞こえ始めた。

 重苦しい空気の中、担任がやっと顔を上げ、

「これから緊急の職員会議をすることになりました。一時間目はこのまま自習をしていて下さい」

 そう言い残し、教室を出ていく。そこでやっと、柚果は自分がずっと凍りついていたことに気づいた。

 声を上げて泣いている子に目をやる。別の子が必死で慰めるが、絞りだすような嗚咽は止まらない。

「星奈ちゃん、去年、高田さんと同じクラスだったんだって」と、彼女をいたわるようなひそやかな声が聞こえた。

 二時間目も通常の授業は行われなかった。担任は教室へ戻ったが、生徒たちには原稿用紙が配られた。『命の大切さについて』というお題で作文を書く。

 三、四時間目は時間割り通りの授業が行われたが、教師も生徒たちも身が入らず、給食を挟んで午後も同じように身の入らないまま授業が終わった。部活動はすべて休止で、一斉下校を言い渡された───。


 いつの間に降り出したのか、外は雨模様だった。傘を忘れた男子生徒が校門に向かって駆けだす。柚果は折りたたみ傘を広げると、水はけの悪いグラウンドを横目に見ながら校門を出た。

 誰にも声をかけられなかったのは幸いだった。本当はずっと怯えていた。
 打ちつけてくる雨を傘で押しながら、柚果は足を速めた。早く家に帰りたい。早く、誰もいないところへ行きたい。

 公園に沿って右に折れると、やっと家が見えてきた。ほっとする。雨でなかったら駆け出しているところだ。

 ふと公園の中に目をやり、柚果は目を瞠った。心臓がどくんと音を立てる。奥の東屋に誰かいる。

 傘を握りしめた。濡れた制服の裾が、ぺたりと足に貼りつく。耳の横で風の音が呻っている。



『柚果ちゃん』



 志穂の声が聞こえたような気がした。早く、早く家に。そう思っているのに、足がすくんで動かない。

 東屋の中で、人影が動いた。制服じゃない、私服だ。よく見ると、小学生のようだった。

 詰めていた息をほっと吐いた。傘を持ち直し、公園の前を足早に通り過ぎる。

 ドアの前でいつものように鍵を取り出し、差し込んだ。開錠してドアノブを回すが、ガツンと手ごたえがするだけで、ドアが開かない。


「えっ」



 もう一度鍵を差して回す。シリンダーが回転し、カチャリと錠が開いた感触が手に伝わった。そっとドアノブを回してみると、今度はすんなり開いた。

 不審に思いながらも、扉を開けて玄関に入る。鞄を置き、靴を脱いだ。濡れた靴下も脱ぎ裸足になると、床の冷たさで身体が凍えた。

「ただいま」

 奥に向かって声をかける。さっきは鍵を開けたつもりで閉めてしまったのだと気づいたのだが、部屋は薄暗く、誰の気配もなかった。

 階段を上がり、自分の部屋に入ってドアを閉めると、湿った制服のまま椅子に腰かけた。

 休み時間に漏れ聞こえた誰かの声が耳をよぎる。



『夜中にね、高田さんの家の前に救急車が来てたみたいなの』



 ほとんど白紙のまま出した作文が頭に浮かぶ。


『命の大切さについて、みなさん、よく考えて下さい』


 仮に事故や病気で亡くなったとしたら、そのように伝えられるのではないか。そうではなく、死因を伏せたままただ「亡くなった」とだけ伝える理由は───。



『自殺じゃないかって』




 誰かの囁く声がする。柚果は目を瞑り、両手で耳を塞いだ。

『一緒に組もう』
 志穂の顔が浮かぶ。

『あたしたちは二人でいいよね』
 そう言って柚果の腕に触れたあの熱は、今この瞬間、もうどこにもない。




 ──わたしのせい?



 心臓がぐっと抑えつけられる。急いで打ち消そうとしても、その恐ろしい考えはどんどん柚果の内側に侵食していく。

 ──わたしが彼女を拒絶したから?

 廊下で親しみを込めて合図を送ってくる振る彼女に、いつもおざなりに手を振った。きっと気づいたはずだ。柚果が壁を作っていたことに。

 ──助けてもらったのに。

 いつまでも三人組を作れない柚果に、声をかけてくれたのは志穂だった。

 ──人殺し。

 鳥肌が立った。志穂を亡くした哀しさよりも、恐ろしさが勝っていた。心の中で誰かが責め立てる。誰かを死なせるほど追い込んだ。自分のせいで人が死んだ……。

 玄関のドアの開閉する音に、慌てて飛び上がった。時計に目をやる。母の帰宅時間には早すぎる。

 息を殺していると、足音が聞こえてきた。階段を上って、近づいてくる。



『柚果ちゃん』



 待って。来ないで。



『柚果ちゃん』



 お願い、やめて。



『柚果ちゃん』



 悲鳴を上げた。足音が柚果のドアの前で止まる。

「やめて!」

 ドアが開き、驚いた顔の弟が覗いた。

「どうしたの?」

 息を詰めたまま両手で顔を覆う柚果に、弟が眉を曇らせる。

「……ううん」

 言いかけて気づいた。弟の服が濡れている。

「大翔……? どこ行ってたの」

 柚果の問いに、弟が慌てたように目を逸らした。

「こんな雨なのに……」

 そのシャツの色に見覚えがあった。さっきちらりと見えた、公園の東屋に見えた人影の服と似ている。

「どうして公園に」

 柚果の言葉に、弟がびくりと身体を震わせた。疑いが確信に変わる。

「なにかあったの?」
「なんでもない」

 短く言って、弟が逃げるように立ち去った。隣の部屋のドアが閉まる音が響く。

 追いかけるように廊下に出ると、湿った靴下が残した足跡が、階段から廊下へ点々と伸びているのが見えた。

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