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第1話 赤いワンピース

私の心はいつも奏を追いかけている。
追いつきたい、隣に並びたい、振り向いて欲しい、私を見て欲しい。
あの子の瞳に私が映ったことなんて、もう久しく無いけれど。

奏と出会ったのは、もうだいぶ前のことだ。
小学校入学前の、五歳くらいのちいさい時。
親に連れられて、美術館で開かれた書道の展覧会に行った時だった。
文字もまだたいして読めない私は、何が書かれているのかも分からないまま、絵を観るような感覚で、壁一面に大小様々に書かれた文字達を眺めていた。
難しい漢字や言葉が読めなくても、書いた人の気迫や想いだけは伝わってきた。
「お母さん、これなんて書いてあるの」
ひとつひとつ親にそう訊ねる。
ただでさえ文字がまだ読めないのに、わざとかたちを崩している作品達なんて、見ても全く理解できない。
親でさえ「これは…なんて書いてあるんだろうね?」と首を傾げるものもあったから、子どもの私が言葉として認識できるものなんて尚更少なかった。
それでも淡い色合いの用紙に黒い墨で描かれている文字達は、私に強い刺激と興奮を与えた。
絵本で覚えたての知識を総動員して、なんとか平仮名を読み上げ、親に答え合わせをしていくのが楽しくてわくわくした。

会場の大ホールに行くと、両手で抱えるほどの大きな筆を持った書道家が、体全体を動かしながら文字を書いていた。
墨汁を周囲に飛び散らせながら、筆を叩き付けるように文字を書くダイナミックな動きは楽しそうで、喋ることも忘れて目を奪われた。
私もやってみたい。
両手の拳を握りしめ、昂る気持ちを抑え込む。
 やがて書が完成し、観客に見えるように用紙が持ち上げられ大きな拍手が沸き起こる。
一通りのお披露目が済んだ後、ずっと息を止めていたことに気付き、  ほっと息を吐いた。
その時 、目線の先に 、自分と同じ歳頃の女の子がいることに気が付いた。
腰まである長い髪を綺麗に切り揃えたその子は、赤いワンピースを着ていた。
見世物が終わったことでぞろぞろと動き出す大人達の動きの波も微動だにせず、身体が固まってしまったかのように女の子は、出来上がったばかりの書をじっと見つめていた。
私の意識もその女の子に釘付けになり、両親に声を掛けられるまで見つめ続けた。
痺れを切らした親に手を引かれてその場を離れる瞬間、相手もこちらに気が付き、一瞬の間目線を交わす。

高校生になった今も、どうしてここまで詳細に覚えているのかというと、今でもよくその時の事を夢に見るからだ。
そして、いつもあの子と目線を交わし、相手が奏だと認識した時、毎回そこで気が付くのだ。
ああ、これは夢なんだ、って。

目が覚めたと同時にアラームを止める。
いつものように携帯のアプリを立ち上げると、先程までみていた夢が保存されていた。
記録された映像を確認することもなくアプリを閉じ、学校に行くためにまだ気だるい身体を起こす。

人間の脳内で発生するイメージを映像化する技術が開発されたのは、私が生まれる少し前だった。
それは教育分野や医療現場、あらゆるビジネスの場面でも応用されコミュニケーションの 円滑化に役立つ画期的な発明だった。
技術が発明された当初は、悪用されることを危惧した人達や団体から、倫理観に関する苦言がなされた。
その結果、国内外含め沢山の議論がなされ、国内では法整備や商業利用する際のガイドライン策定が急ピッチで進められたらしい。
現在では多くの人が気軽にその技術の一旦を活用している。
最近では、その技術を使い、自分の夢を記録して心と身体の状態を把握、管理するアプリが流行っていて、私が使っているのもそれだった。
夢は自動でカテゴライズされ、その時の脳波や分泌物を分析することで現在の身体の状況をアプリが教えてくれる。
 大昔の夢占いの精巧版、とでもいえばよいだろうか。
私が見た夢を覚えているのもこのせいだったりする。

あの夢を見た日の朝は、身支度をしながらその後の続きをよく思い出す。

親に連れられて行った書道展から1か月後、私は近所にある書道教室に通うようになった。
辛うじて「あいうえお」の五十音は覚えていたけれど、カタカナは教室に通うことになって親と慌てて覚えた。
それでも、やわらかく書かれた文字が平仮名、カクカクしている文字が片仮名、という何とも感覚的な覚え方だったのだけれど。
初日は母に連れられて行った。
2回目からは一人で行くと宣言して、買ってもらったばかりの書道セットの鞄を抱え持った。
靴を履き、右手に鞄を持って玄関に立つと、母がしゃがんで頭を撫でてくれた。
「いってらっしゃい」
「行ってきます!」
母に頭を撫でてもらい送り出される。
今思い返せば、近所とはいえ母も心配だったのかもしれない。
道路まで出て私が曲がり角を曲がるその時まで、ずっと手を振り見送ってくれていた。
私もそれを、何度も振り返って確認する。
角を曲がると、振り返っても母の姿は見えなくなり、ちいさな路地と建ち並ぶ民家しか見えなくなる。
不安に襲われるも、切り替わるのは一瞬だった。
習い事も、自分から何かを親にねだることも初めてだったので、 これから起こる新しい事へ喜びに、心臓がどくどくと脈打った。
目的地へ向かって前へ前へと、突き進む。
この間も親と来たばかりだから、見慣れない道でも迷うことはなかった。
見えてきた書道教室の建物の前で立ち止まり、 はやる気持ちを抑えてゆっくりと扉を押し開けた。
室内に漂う墨の匂い。
何人もの生徒がいるのに、しんと静かで、時折筆を置く音。
いつも家でお絵描きをしている紙とは異なる、半紙の肌触り。
何もかもが新鮮で、刺激的だった。

席に着くと、その日隣に座ったのは書道展で出会ったあの女の子だった。
思わず横顔を見て「あ」と声が漏れる。
私の声と目線に気づき、怪訝そうにその子がこちらを見た。
たぶん私のことなんて覚えてないだろうな、と思い「初めまして、私、糸って言います。よろしくね」と笑ってみる。
「えっ」
困惑顔の女の子が返事をする前に、前の席に座っていた女の子ふたりが反応した。
「いとっていうの?私は柚木だよ」
「あたしは結子だよー」
それが、今になっても続く結子と柚木と、そして奏との出会いだった。

赤いワンピースの女の子は、奏といった。
私達が通う書道教室の先生の子どもで、三歳の時から習っているとのことだった。
その言葉通り、奏は文字を書くのが上手かった。
最初は書けても平仮名の基礎的な文字からだけれど、まだ鉛筆でも上手に文字が書けない私にとって、彼女はすぐに尊敬の対象になった。
書道教室から帰宅後、一日を終えての就寝前に今日の事を思い出す。
よし。
昼間の興奮を思い出し、親に敷いてもらったばかりの布団から立ち上がる。
「お母さん!今から書道の練習する!」
「もう寝る時間だから、明日早起きしてしなさいな」
至極あっさりとそう諭されて、頬を膨らませながら再び毛布を被る。
すぐ奏ちゃん達に追い付くぞ、と胸に決めてその日は目を瞑ったんだった。

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