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#19イタリア・サルデーニャ ウルルン滞在記⑥ 最終回『ほんとうの豊かさを知り得た旅』

 1995年から13年半続いた『世界ウルルン滞在記』というテレビ番組があった。
 それは、若手俳優が外国にホームスティして、「そこでの暮らしを体験し、生活の中から世界の在り方を伝える」というもので、1週間の短い期間とはいえ、生活をともにする家族との関わりは、当事者だけでなく見るものにも胸を打つものだった。
 タイトルの「ウルルン」というのは、「出会、泊ま、見、体験」からつけたというのだが、どの回も、最後の日は「うるうる」の別れのシーンがあって、「ウルルン」は「うるうる」する番組でもあった。
 この番組が始まる前年の1994年7月に、私たちはイタリア・サルデーニャ島に滞在したのだが、最後の日はやはり「うるうる」と込みあげるものがあった。
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 そう、あれは確かヴィラを去る前夜だったと思う。
「あ~ぁ、赤字だわ」
ロベルタの部屋の前を通るとつぶやき声が聞こえた。
 半開きになっているドアの向こうで、レシートの山と電卓で格闘している姿があった。
 そうだろう、彼女たちが作った『ヴィラに滞在してイタリア語を学ぶ』の3つ折りの案内に書かれていた「滞在費+レッスン料」は、額は忘れてしまったが、
「1週間の滞在費でこれだけ?」
と驚いたものだ。
 当時の日本はバブルが弾けた直後だったから不景気の実感薄く、好景気に浮かれた余韻がまだ残っていた頃だった。
 円高に乗じた日本人観光客の姿がどの国にもまだあったし、「爆買い」していた日本人の印象は「金持ちの国の日本人」のままだった。
 
 こんな会話をした。
「ねぇ、ロベルタ、今度はぜひ日本に遊びに来て! 日本の神社やお寺などを案内するわ。「A SA KU SA」を知ってる? ウチから近いのよ。見せてあげたいな」
すると彼女は少し間をおいて、
「無理よ、遠すぎる。それに日本はとても高い。私たちには行けない」
彼女は苦笑し、ためらいがちに言った。
 その答えに、私は気軽にそう言ってしまったことを悔いた。彼女は続ける。
「私たちはね、チュニスでバカンスを過ごすのよ」
「えっ? チュニスってどこ?」
「チュニジアよ。とっても素敵なところよ」
 サルデーニャは地中海の真ん中にある大きな島だ。南方にはアフリカ大陸がある。彼女たちは、サルデーニャの目と鼻の先にある北アフリカでバカンスを過ごすというのだった。
 その旅の手配をするというので、旅行代理店について行った。
 パンフレットには、夕日に染まるプール付きのホテルと、白い外壁に青い扉の建物が続く家並みなど、古代ローマの影響を受けたイスラム文化の美しい写真があった。ヨーロッパ人は、こうした異文化の国に憧れるのだろう。
 もっとも「アフリカ」という国の私のイメージは、砂漠、ゾウ、キリンといったサファリだったので、イスラム文化が色濃く表れた北アフリカの魅惑的な写真を見て、いつかぜひ行ってみたい国のひとつになった。
 
 それにしても、1週間というのは、なんと早く過ぎたのだろう。
あの、初めてサルデーニャ島・カリアリ空港に着いたときの期待と不安。見知らぬ人たちと暮らし始めたヴィラでの生活。(→ウルルン滞在記①
 
 スペイン人の少年と3人だけのイタリア語講座。とはいえ、彼はイタリア語をほぼ理解していたから、毎日、遊びに出かけてしまい、事実上、私たち2人だけのレッスンだったのだけど…。(→ウルルン滞在記②
 
 美しいまちの景観を維持するため、空と海の青に映える自然の色を基準として、建物の外壁色を決めているという話を確認したくて歩いたこと。(→ウルルン滞在記③)
 
 そうして強い日射の中を歩きまわっていることを、どこかで見守ってくれていたトルトリの町の人たち。(→ウルルン滞在記④
 
 彼女たちにとって初めての日本食は、私たちが作った「ちらし寿司」だったが、それにオリーブオイルをかけて「ボーノ、ボーノ」と食べた。ちらし寿司は「リゾ(ライス)サラダ」になってしまった。
 
 マルチェラの実家に訪れた時、私たちは彼女の両親や弟にイタリア語で自己紹介をしたものの、そのあとの会話は何を聞かれてもわからず続かず、小さなテレビ画面に映し出されるサッカーの試合を、押し黙ったまま一緒に観戦した。
 
 当時の日本にはカプチーノが普及しておらず(昔の喫茶店は、コーヒーにシナモンスティックを添えたものをカプチーノと言っていた)、私はヴィラで飲んだ、泡立てミルクをたっぷり注いだ濃いコーヒーにやみつきになった。その後、探し続けたカプチーノメーカーを自分用みやげとして持ち帰り、友に作って飲ませては喜ばれた。
 1996年に銀座に初上陸したスターバックスより先に、カプチーノを日本に持ち込んだのは私だ。
 
 イタリア人はよく喋る。仲間と集まり、よく喋る。時折、喧嘩しているのかとハラハラするほど、熱く自分の考えを主張する。彼らは「何をどうしたいか」「これについてはどう思うか」と、意見をしっかり持っている。
「こう言ったら笑われる」とか、「こう言ったら失礼かも」など、言いたいことを呑み込むことはなさそうだ。
 腹にためることなく、腹を割って話し切るから、そのあとが実にすっきりしている。
「あー、よく喋ったわ。ジェラート食べに行かない?」
とこんな調子だ。(→ウルルン滞在記⑤
 私もその話の輪の中に入りたかった。
「あなたは、どうしたい?」「これについては、どう思う」と聞かれていたのだろうけど、言葉の壁で、存分に意見交換ができなかったことが悔やまれる。
 
 帰国日が迫ったある日、みんなでハイキングに出かけた。列車で行くという。この島に鉄道があるのを知らなかった私は、ウキウキした。
 彼女たちの後ろをぞろぞろとついて歩いた先に、古い建物があった。
「ここが駅?」
改札口のない、民家のような建物に、ほんとうに列車が停まるのだろうか? 右から来るのか、左から来るのかわからぬまま線路の先を見ていると、来た来た、右手から機関車が迫ってくる。短いホームに、たった2両の列車が止まった。 

段差のないプラットホームからずっと外れて、電車が停まった


 遊園地の列車のような狭い座席に乗り込むと、ズッズッズッズと進み出す。小高い丘を力強く行くそれに揺られながら、私は箱根の登山列車を思い出していた。
 そうして着いた先は、「サダリ」という名の赤く四角い駅。アメリカの荒野、西部劇を彷彿させるものだった。


サルデーニャ鉄道「サダリ」駅


 なんとはない町を行く。観光客もいない。売店だってない。自然があるだけの田舎町。ただそれだけ。その小高い山を汗かき登り、てっぺんにある岩場に腰かけて、記念写真を撮るのは私たち日本人だ。

小高い山の岩場で記念撮影


 そこに1軒だけある、素朴なレストランで昼食をとった。何を食べたか、美味しかったかの記憶は全くないが、思い出すのは、みんなが躍り出したこと。
「ほら、キミコ、クミコ! 座ってないで、踊って、踊って、ダンスして」
マルチェラの声に誘われて、照れながら私も彼女たちの中に入った。

 マンジャーレ、ベレ、カンターレ、パルラーレ、バラーレ!
 食べて、飲んで、歌って、喋って、踊る!

 これがイタリア人、イタリアの人々のごくごく普通の生活か。その変わらぬ日常に幸せを感じ、存分に楽しむ豊かさ、人間のおおらかさを見た気がした。
 
 あれから30年経った。現在(いま)を「失われた30年」と人々は言う。私たちは、何を失ったのだろう。
 ここで取り戻したいのは、金銭的豊かさではなく、当たり前に過ごすことのできる日常への感謝、人間らしさを取り戻す時間的ゆとり、普通の暮らしを楽しめる心、自然を尊び、調和して生きる生活。それらを感じ取る余裕ではないか。そこに、小さな幸せがたくさん存在しているのだから。それらに気づき大切に思える心が、ほんとうの豊かさではなかろうか。
 
 サルデーニャを発つ日、ロベルタが私たちに言った。
「キミコ、クミコ! ローマに行ったら、「ジャポネーゼ」と言ってはダメよ。狙われるからね。「チネーゼ(中国人)」と言いなさい」
「スィ、スィ! グラッツェ グラッツェ!!」
そう返事をしたいのに、「うんうん」と頷くばかりで言葉にならない。
 そのまま、強く抱き合って右頬「チュッ」、左頬「チュッ」で、さよならをした。
 
 30年経ったいま、時代は変わり、ロベルタの言葉は全く逆になってしまった。けれど、サルデーニャ島の小さな町、トルトリで過ごした豊かな暮らしを、私はいまも忘れてはいない。(おわり)

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