#3 あの世から贈られた猫「ランちゃん」
「おじいちゃん、公園のベンチの下に、子猫が1匹、捨てられていたよ。かわいそうだから拾ってきた。おじいちゃんは、前に猫を飼っていたもんね」
甥が、小さな猫を両手でふんわり包んで、父の家に駆け込んできた。
その日から、父は図らずも猫を飼うことになってしまった。10年ほども前のことである。
父は、戸惑っていた。もう、動物は飼わないと決めていたからだ。
というのも、14年飼っていた三毛猫は、数年前に病気で死んでしまった。その前には、13年間可愛がっていたマルチーズを老衰で見送った。さらにその前に飼っていた最初のマルチーズは交通事故に遭い、突然、亡くなった。
可愛がっていた動物たちが、自分より先に死んでいく……。「死」を見るのは、もうたくさんだったのだ。
その思いは、私たち家族が感じていたよりも、もっとずっと強かったのだろう。
実は、甥が猫を保護した6か月前、父は妻を亡くしていた。私たちの母である。家族の中で一番、元気に動きまわる働き者の妻を、あっけなく失ったのだ。
医師の告知の日は忘れもしない、11月16日。色彩デザイナーだった私が「いい いろの日」と名付けたその日だった。
「末期がんです。余命は年内いっぱいでしょう」
淡々と告げる言葉は空言のようで、私の耳をぼんやり素通りした。
「あと1か月あまり…」
その時から、父は急に衰えていった。足元はふらつき、表情は硬くなっていく。自分よりも先に妻が亡くなるなど、1ミリも想像したことはなかったのだ。
宣告された残りの命があまりにも短かすぎて、私たちは母に本当のことを告げられずにいた。それでも母は、翌年3月まで頑張り、けれど逝ってしまった。
そんな年の10月だったのだ。甥が子猫を連れて来たのは…。
子猫はすくすく育った。部屋中を駆けまわり(Run)、棚の上の物を落とし(乱)、ゴロゴロ喉を鳴らしてすり寄っては、父の脚に乗っかって眠る。可愛いい(蘭)。Run、乱、蘭…、「ランちゃん」と名付けた。
そんな子猫が側にいることで、父の表情はみるみる和らいでいった。ランが生きがいとなっていったのだ。
「お父さんが寂しくないようにと、あの世の母が子猫を送り込んだんだね」
妹と私はいつも、そう話していた。
母が亡くなった後、私は父とのふたり暮らしとなった。いや、ふたりと1匹だ。仕事で常に帰宅時間が遅い私だったから、日中は、ほぼ父はランと過ごした。ランのペースで1日が動き始めたことで、父の孤独は癒されていたに違いない。
そんな生活が日常化し始めたとき、突然、私の人生にも変化が訪れた。なんと、結婚することになってしまったのだ。誰もが、本人でさえも、そんな縁が訪れようとは思いもよらぬことだった。
33歳で会社を創り、20年間、好きな仕事にのめり込んできた私の人生が一転する出来事だった。「人生って面白い!」 私はその申し出を受け入れることにした。直観だった。
しかしそうなると、私は遠方に行くことになる。妹家族のように、すぐ近くに住むことはできない。
「わずか1年あまりで、再び父を独りにさせてしまう…」負い目を感じながらも、私は、自分に開かれた道を行く決断をした。その選択を、父は黙って受け入れてくれた。
そうして翌春、夫となる人物を、父と妹夫婦に会わせる日が来た。上野公園内にある懐石料理の店の個室で、誰もが緊張した面持ちで対座した。
差し障りのない会話だったと思う。打ち解け、談笑し、食事を終えた頃、突然、父が切り出した。
「お前たち、席を外してくれ。大事な話がある。ふたりだけにしてくれないか」
部屋から出された私と妹夫婦は、父の言葉に驚いた。
「どうしたのかしら? ねぇ、何かマズイこと言った?」「大事な話ってなんだと思う?」「人払いしてまでの重要な話よ」「もしかして、結婚を反対されるのかしら」
不安な気持ちを抱えたまま、再び部屋に呼び戻されて、その日の顔合わせを終えた。
帰り道、桜が散り始めた公園内を夫と歩きながら、気になる父の話の内容を恐る恐る聞いてみた。
「ねぇ、父に何を言われたの?」
夫は微笑みながら答えた。
「お父さんはね、「この先、ランよりも先に自分が死ぬかもしれないから、その時は、ランを引き取ってくれ。よろしく頼む」と、言ったんだ」。
「えっ? ランのことなの? 「きみこを幸せにしてくれ!」じゃなかったの? 私の結婚話なのに…」
私は笑った。小さな哀しみを受け止めながら。