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喪失の秋、心が揺れた冬、そして希望の新春
はじめに
私は2024年9月に弟を、11月に義母を見送り、12月には体調を崩して苦しい日々を過ごしました。その中で、悲しみや葛藤を整理し、再び未来へ進む力を見出すために、この記録を書き残すことを決めました。
これから記す内容は、決して読んで楽しいものではありません。しかし、50代に入ると、大切な人を見送る機会が否が応でも増えてきます。それは仕事や家庭での責任が最も重くのしかかる時期と重なり、心身ともに大きな負担となります。この記録を通じて、私達と同じような状況で苦しむ方々に、少しでも乗り越える勇気を届けられたら幸いです。
喪失の秋(9月〜11月中旬)
弟の緊急入院
2024年9月頭に彼が入院したという知らせから始まりました。その時は、深刻な病状であるとは想像もしていませんでしたので、彼を見舞いに行った時の姿は衝撃的でした。弟の身体中に無数の管が刺さり、首のまわりの腫瘍は顔の幅と同じくらい大きくなって別人のように見えました。その時点で腫瘍が気管を圧迫するために気管切開を余儀なくされ、彼の声を聞くことはもう叶わなくなっていました。
進行が早く治療の難しいがん
その後、医師とのカンファレンスが行われ、弟の腫瘍が”原発不明の低分化がん”という進行が早く治療が難しいがんで、医師からは時間が限られていると告げられました。さらにこのまま治療をしなければ今月中に命を落とす可能性が高いこと、治療を行ってもそれが効果を上げるかは不明であること、手術や放射線治療がすでに難しく、抗がん剤治療に限られることなどが説明されました。説明を受けた内容をChatGPTにかけた結果は絶望的で、私にはどうしても現実とは思えずぴんときませんでした。弟には大学生、高校生、中学生の3人の子どもがおり、弟ははせめて一番下の子が高校に進学するまで見届けたいと願いました。しかし、それすらも難しい現実を突きつけられました。
「なめんな、ここから巻き返す」
そんな中でも特に印象的だったのは、喋れない弟が「これで諦めるか、なめんな、ここから巻き返す」とスマートフォンのテキストで語った瞬間です。その言葉には、彼の強い意志と家族への深い想いが込められていました。弟は昔から私や家族に弱いところを見せず、自分や周りが困難に直面したときにも、必ず立ち上がる強さを持っていました。その姿勢は、彼が家族を守るためにできる限りのことをしようとする責任感から来ていたのでしょう。私は彼のその姿勢に心を打たれつつも、何もできない自分の無力さを痛感しました。
それは彼を看取った時も、彼の葬儀の時も、ずっと私にのしかかりました。
義母の逝去
一方で、義母は穏やかにその時を迎えました。彼女はいつも冷静で、私たち家族の騒がしさにも何も言わずいつも笑顔で見守り続けてくれました。それでもこの間まで健康でずっと長生きしてくれるだろうと皆が思っていた優しい義母を看護する日々の中で義母とともに夫がどんどんやつれていく姿を見るのが辛く、子ども達のためにも私がしっかりしなければとわかっているのですが、私自身も心の支えを見つけるのに苦労しました。それでも、義母の存在が私たちに与えてくれた温かさと安心感は、最後の瞬間まで変わりませんでした。
仕事での試練
この期間中、仕事と生活の両立も大きな試練となりました。ちょうどその時、私が会長を務めるフロイデ株式会社の代表取締役が辞任することになり、私自身が代表取締役会長に就任しました。ありがたいことに私ではない別の取締役社長が実務的な経営を担ってくれることにはなりましたが、一部不採算事業の見直しやガバナンスの強化など、私もさまざまな課題に対応する必要がでてきました。また、私が社長をしている株式会社フロイデギズモや株式会社あいふろいででは案件終了に伴って営業活動に注力する必要がありましたが、時間的な制約はもちろん様々な場面で私の体力がついていかず思うように進められない場面が出てきました。またささいなことですが、たとえば紹介された会社の責任者の雰囲気や仕草が弟に似ていたことでそれ以上笑顔で話を進められなくなったり、細かいケアレスミスが激増したり・・・
勉強会やイベントや懇親会への参加はおろか、メールチェックもそこそこに、帰って風呂にも入らず化粧も落とさず布団をかぶって眠る日々が増えていきました。
心が揺れた冬(11月下旬〜年末)
心身の不調と仕事への影響
弟と義母の葬儀を終えた後も、仕事での行き詰まりと弟や義母の死による喪失感は私の心をさらに追い込み、なかなか日常に戻ることはできませんでした。特に辛かったのは、弟が入院先で会社の携帯電話を子どもに預けて「もうこれをここに持ってくるな」と言ったシーンが頭から離れなかったことです。その言葉が、自分の仕事に一体どれだけの意味があるのかという疑問を繰り返し心に投げかけました。特に福祉現場での業務では私自身の不安定な精神状態が利用者に悪影響を及ぼすのではないかという懸念があり、周囲もそれをすすめませんでした。
この冬、私が鬱と感じた最も顕著な症状は、日常生活の基本的な動作すら辛くなることでした。お風呂に入るのが億劫になり、結果リモートワークが増え、それによりさらに家から出る機会が減り、どんどん引きこもりがちになりました。
さらに体調面でも困難が続きました。11月末の定期株主総会では酷い胃腸炎に見舞われ、何も食べてないのに吐くような日が数日続きました。その後インフルエンザや膀胱炎を発症し、免疫力が低下していることを実感せざるを得ませんでした。インフルエンザがおさまってもなかなか咳が抜けないまま年末から年始にかけて再び胃腸炎にかかり、結局ベッドの中で年越しを迎えることになりました。
救われた息子との時間と新しい仕事
一方で、息子と山荘を訪れる機会がありました。そこでは山の澄んだ空気と木々の音、せせらぎに癒され、温泉に入ることで少しだけ心が軽くなったように感じました。特に息子と過ごした静かな時間は、何も話さなくてもお互いが大切な存在だと感じられる貴重なひとときでした。
また仕事ではグループ会社「吉開のかまぼこ」の年末商戦に参画する機会を得ました。これまで培ってきたWebマーケティングやEC・SNSのノウハウを生かし、チームで売上を拡大する経験は、久しぶりに仕事の手応えを感じるきっかけとなりました。
そんなふうに少しずつではありますが、周囲とのつながりや、自分が貢献できる分野を再確認しながら、前進する力を取り戻しつつあります。
希望の新春(1月〜)
新年会での出会い
様々な不調に苦しみながらも、年が明けると、少しずつ気持ちが回復する兆しが見え始めました。そのきっかけの一つが、大阪のベンチャー企業アジャイルウェア社からご招待頂いた新年会への参加でした。その場では、次のステージに進もうとする企業のエネルギーに触れることができました。また、偶然にもその場で懐かしい人と再会し、昔話に花を咲かせるとともに未来の話をすることで、自分自身の人生がまだ続いていくことを実感できました。
新しい希望
さらに、20代の若いゲーム会社社長から仕事をいただく機会を得たのですが、その社長がインディーゲームの未来や新しいビジョンについて熱く語られる中で、私自身が会社を立ち上げた頃の初心を思い出すとともに、新しい希望や目標を見つけるきっかけを得ました。
他でもフロイデギズモやフロイデールで仲間が頑張ってくれたおかげで、新規開発や保守運用などでの引き合いはもちろん、エンジニア育成・ホームページ制作・障害者雇用などのお声がけやイベントの登壇要請などもいただけるようになりました。
仲間たちやお客様に、本当に救われました。
4月は過去最高の利用者数に
特に、障害者就労支援事業では利用者数が増加し、2025年4月には前年度の倍近い利用者さまをお預かりすることになり、新しいオフィスを開設する準備が始まりました。このプロジェクトを通じて、皆で新しいオフィスのレイアウトや色合い・デザインについて、4月からこのオフィスに入ってきた時の利用者の方の緊張と期待に溢れる表情を想像しながらああでもないこうでもないと仲間たちと意見を交わす中で、未来への期待が少しずつ膨らんでいくのを感じています。
こうして、新年を迎えた私は、過去の喪失を抱えながらも、再び自分の足で立ち上がり、前進することを目指せるようになりました。周囲の支えに感謝し、未来への希望を胸に、一歩一歩進んでいくつもりです。
ここまで読んでくださった方へ
この記録をここまで読んでくださり、ありがとうございます。
私は今回弟と義母という大切な家族を失い、仕事や生活にも大きな影響がありました。しかし、その中でも支えてくれる家族や仲間、そして新しい挑戦の機会に恵まれたことで、少しずつ心を立て直すことができつつあります。
もし、今これを読んでいる方の中に、私と同じように喪失感や困難を抱えながらも日々の責任に向き合わないといけない方がいるならば、あなたにも伝えたいことがあります。
「辛いのは、それだけ深く愛され、愛してきた証です。そして、責任のある仕事を担っているということは、それだけあなたが必要とされている証です。」
未来は続きます。私にも、あなたにも、きっと希望と喜びが待っています。