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『KAZUYO KINOSHITA 木下佳通代 没後30年展』大阪中之島美術館(2024アートツアー⑦)

今日は久しぶりに、じっくりと展覧会レポートを書いてみようと思います。それにしてもアートレポートも今年、7回目か~。積み重ね大事だわ!

『KAZUYO KINOSHITA 木下佳通代 ~没後30年展~』in 大阪中之島美術館
2024.5.25~8.18

この展覧会は、いつものアートツアーのメンバーと春先頃からずっっと楽しみにしていた展覧会だ。何でそんなに楽しみにしていたかと言うと、、、「何となく、良さそう!」という、単なる予感なのだけど、、、案外、そういうのは良く当たる。

それが証拠に、もうひとつ予想外に楽しみが更に増えたのは、木下さんが神戸出身の作家さんだと知ったこと。実際に展覧会に行く前に、今回の木下佳通代展にちなみ、神戸の老舗ギャラリー『ギャラリー島田』で、木下さんと関わりの深い作家さんの展覧会を行っていることを知り、それを観に行った際に、木下さんが我が町神戸出身だったことがわかったのだ。

ご主人の、同じく作家の奥田善巳さんと神戸で絵画教室をされていたという。そして、最近ある方を介してお知り合いになった現代画家のTさんも、その教室に通われていたというのだ!

中之島美術館のような大きな美術館で紹介される作家さんが、神戸に住んでいて、自分も知っている方と関りがあったなんて、、、と、展覧会前から木下さんをとても身近に感じ、私は勝手により楽しみを募らせていた。

展覧会では、木下さんの初期の作品から、50代でご病気で亡くなられるまでの作品が、年代を追って展示されていた。木下さんは、画家でありながら哲学も学んでおられ、初期から中期頃の作品では、哲学的なことをアートで表現するというものが多かった。特に、中期頃には写真を使った作品の取り組んでおられて、モノクロの同じ写真を何枚も並べて、徐々に色をつけていくものや、コンパスで描いた線を写真で撮って現像したものの上に、更に線を描くなど、面白い試みをされていた。

モノクロの写真作品では、まず人から色が付き、徐々に背景まで埋め尽くされるのだが、それを観ていて私は、人は自分が認識するものだけに注目していることが多いということに気づいた。だが、実際は背景も含めて、世界全体が全てを形作っている、そんな表現なのかなと感じた。

コンパスの作品では、コンパスで描いた円を斜め上から写真で撮ると、写真上は楕円になるが、見ている人はそれが円だと思ってみているというものだった。更にその上から、線を引けばもう、何が実際なのかわからなくなっちゃうねって、面白い作品。私たちが、観ているもの、認識しているものは不確かなものだよ、、、とそんなことなんだろうかな。

アートの面白いところは、説明のいらないところだと私は思っている。感覚が一瞬で、まんなかにズドンと伝わるから、面白いと思っているが、木下さんは、こんなに難しい哲学的なことまでアートにして伝えてしまう。え、天才やん。「カッケー!!!」と、私のなかの一番の誉め言葉(カッコイイ)を、惜しみなく贈った。まじ、クールだぜって感じ。

そして、、、晩年に近づくにつれ、作品は題材も画材も、表現方法も、ガラッと変わっていく。木下さんは、乳がんを患った。病気であることがわかった頃から、油彩で大型の作品を描くようになられる。しかも、筆で描いた線の上を、大胆に布で拭うという、襲い掛かってくるような迫力の作品を何枚も何枚も。その作品は、「生」という感じが私にはした。胸が締め付けられるような息苦しさだった。

が、その時期の作品の最後に飾られていた最も大きな作品は、ご主人の奥田氏の作品とのペアで展示されており、威風堂々という印象だった。

そこを抜けると、パッと開けた会場に、筆のタッチも、色味も柔らかくなった作品が広がっていた。キャンバスには、風通しのいい空間があり、空気全体が和らいでいた。心が整理されて、落ち着きを取り戻しているような印象。それは、「凪」という空気感だった。

後で振り返ると、ひとつ前の段階では、拭っても拭っても湧きおこる死への恐怖で、心が混乱されていた時期だったのだろうと思える。こんなにも苦しいのに、それでも自身の内面を作品という形にまとめ上げていく姿は、身に起こる事、考えること、感じること、とにかくすべてを表現することが、生きることそのもの、という方だったのだろうと感じる。表現することで、生きていたという風にも言えるのかな、、、とにかく、圧巻の内容だった。

前回は、キュビズムで疲弊しまくった私たちだったが、今回は「やぁ、よかった。気持ちがすっきりして元気になったね」と言い合った(だからってキュビズムがダメはわけではありません)。また、私は、「あー、こんなすごい大先輩が、身近な場所におられたんだなぁ」と感慨もひとしおだった。

そして、ちょっと時期を置いてしまったが、今こうやってレポートにまとめているのだが、、、

実は私にはひとつ、展覧会のときによく理解できなかった作品がある。それは映像作品で、最初は何もない空間に、椅子や人形、よくわからない缶かんなどがどんどん置かれて行って、あるところまでいくと、今度はそれを一個ずつ取り除いて、最初と同じ、何もない空間にして終わるというものだ。添え書きは、(はっきりとは覚えてないが)『同じ空間でも、物が置かれる前と置かれてなくなった後の空間は、全く別物だ』というものだったと記憶している。その時は「うーん、そうなん?よくわからない」という感じだったのだが。

『木下佳通代という一人の人間が生まれ、作家として多くのワークをし、この世を去っていった。この世界に、その人はいなくなったとしても、その人が存在する前と、存在した後の世界は、確かに違う』

そういうことなのかなと、少し「わかる」気がした。

それはただ単に、作家として作品を残したからという話ではなく、すべての存在に共通して言えることなのかな、と。そんな感じかな、、、う~ん、分かるような気がしているだけかな。

あぁ、木下さんが生きていらしたら、「どうなんですか?」って、答え合わせができたのにな。色々作品の話もできたかもしれなかったのにな~。

会いたかったな~。生まれ変わったら会えるかな~なんて。

今回は、ラブレターみたいな感想で、失礼します(笑)


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