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藤田嗣治と親交のあったエコール・ド・パリの洋画家、板東敏雄

板東敏雄(1895〜1973)という徳島県出身の洋画家がいます。今日、この画家の名前を知っている日本の美術ファンは殆どいないのではないかと思われます。何故かと言うと、若くして渡仏し、そのまま現地の女性と結婚して二度と帰国することが無かったためです。ただ、フランスでは一定の知名度があるようで、ウィキペディアの項目が存在します。まず、出身地の徳島県立近代美術館の公式サイトにある板東敏雄のプロフィールを引用致します。

1895年徳島県に生まれる。1973年没する。本名は保。大阪商船会社に勤務する父親の転勤に従って各地に移り住み、宮崎県で中学校を卒業する。1913年上京、川端画学校に学ぶ。1918年の第12回帝展、翌年の第1回文展、1920年の第2回文展等に出品するが、1922年フランスに渡る。モンパルナスに住んで、エコール・ド・パリの作家たちと交友するほか、留学中の日本人画家の組織である「巴里日本美術協会」の主要メンバーの一人として活躍する。サロン・ドトンヌ、サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・デ・テュルリーなどに出品し、日本的な情緒と甘美さをたたえた独特な画風でパリ画壇の注目を集めた。

次に、『毎日新聞』1996年11月2日「四国のびじゅつかん64」に掲載された板東敏雄《ヴァイオリンを持つ婦人像(仮称)》に関する江川佳秀氏(徳島県立近代美術館学芸員)の文章を引用致します。

板東敏雄《ヴァイオリンを持つ婦人像(仮称)》(徳島県立近代美術館、制作年不詳)

 1910年代から20年代にかけて、多くの日本人画家がエコール・ド・パリの全盛期であり、フランスの新興美術が世界の美術界をリードしていた時代である。留学生たちは新しい美術の息吹を持ち帰り、昭和初頭の洋画壇に一時代を形作った。
 板東敏雄もこの時期にフランスに渡った。板東はフランスで現地の女性と結婚し、2度と帰国することがなかった。そのため国内では忘れられた存在となっている。
 1895年に徳島市に生まれた板東は、川端画学校に学び、1918年から3年間、文部省美術展、帝国美術院展に出品した。当時は若い俊英と注目を集めたらしい。しかし国内の画壇に残した足跡はこれがすべてである。
 22年にフランスに渡り、向こうではサロン・ドトンヌ、サロン・デ・テュイルリーなどに出品した。日本趣味を色濃く漂わせた作品を発表し、東西の伝統の見事な折衷であると評された。日本人留学生には珍しく、さっそくパリの画廊が専属契約を結んでいる。
 板東の作品は没後20年たった今でも、しばしばフランスのオークションに登場する。国内とは違って、向こうでは相変わらず相応の評価があるらしい。
 この作品は40年代と考えられる作品。バイオリンを手に、アトリエの片隅でポーズをとる女性を描いている。黒と褐色を基調とした重厚な色彩と、なめらかで光沢のある絵膚が、漆のような質感をみせている。油彩画であるが、何か西洋とは異質な感性を感じされる。東西の伝統の見事な折衷と評された、板東らしい1点である。

私が板東敏雄を知ったきっかけは、栃木県立美術館の企画展「ゆく河の流れ ―美術と旅と物語―」(2012年10月27日〜2012年12月24日)にこの画家の《風景》(栃木県立美術館、制作年不詳)という作品が出品されたことです。

板東敏雄《風景》(栃木県立美術館、制作年不詳)

この作品を見て「良い絵を描く画家だ」と思い、気になってグーグル検索したのですが、当時は後述する板東敏雄の公式サイトが存在しなかったので殆ど情報を得られませんでした。

その後、板東敏雄の未亡人からカタログ・レゾネの制作を託されたJACQUES BOUTERSKYという画商の手による公式サイトが制作され、その日本語版も存在し、それにより、この画家の詳細を知ることができるようになりました。

その中より「アーティスト紹介」と題された項目の文章を引用致します。

板東敏雄の世界に足を踏み入れると、親密で洗練され魅惑的な世界を旅するかのような感覚を覚える。坂東自身そのような世界と故郷日本への愛着は非常に強かった。身近な環境から孤高の瞑想やインスピレーションを豊かにする糧を得て、身の回りの世界を構成する物や人物、風景を得意の画材とした。

板東敏雄の作品は数多くの個人コレクターや複数の美術館が所蔵し、また画家自身が目立たない生活を好んだこともあり作品はほとんど公に出ず、画業は一般にあまり知られていない。まるで隠遁するかのように、坂東は過ぎゆく日々を見つめ瞑想し、社交よりも家族生活を優先した。歴史的な画商ジョルジュ・シェロンと契約関係にあったが、シェロンの死後、他の画廊に所属することなく独立の道を選んだ。現在編纂作業中の板東敏雄外題付き作品総目録(カタログ・レゾネ)や、目録作成や解明を可能にした遺族の元に残る貴重な資料は、この埋もれた芸術家の再評価に欠かせないものである。

板東敏雄は1895年7月16日、日本の徳島に生まれた。二つの武家の流れを汲む武士の孫として、先祖への誇りを抱き、誠実さと寛大さを受け継いだ。父、板東保太郎(やすたろう)、母、ノムラ・サキの子として生まれ、本名は保(たもつ)。1922年7月にパリに渡り、まずカルティエ・ラタン地区のオテル・ド・ニースに滞在、ボザール通りを経て、モンパルナスに居を移し、知人の勧めにより藤田嗣治と出会う。当時、藤田は既に滞仏が10年に及び、知名度も非常に高く、サロン・ドトンヌ会員で、モンパルナスに集う画家達の尊敬の的だった。二人はすぐさま篤い友情で結ばれる。

藤田は喜んで若き板東にパリでの生活について伝授し、あらゆる友人や、契約していた画商ジョルジュ・シェロンにも紹介した。坂東の方は先輩に対し深い憧憬の念を抱き、また、ドランブル通り5番にあった当時の藤田のアトリエを数ヶ月の間、共有で使わせて貰う恩恵にあずかった。当時藤田の妻はモンパルナス中の画家や関係者を知る芸術家のフェルナンド・バレだった。坂東は藤田よりもずっと目立たない性格だったが、自然体のエレガンスをまとい、堂々たる身の丈と魅力的な人格で、藤田のアトリエに出入りする多くの友人やモデル、訪問者達を魅了した。シェロン画廊で開催された初めての作品展はモンパルナス画壇やパリの批評界の好評を得た。藤田のアトリエを辞した後、坂東は1925年までに、ウディノ通り23番、ボワソナード通り20番の2、ラスパイユ大通り207番、ダゲール通り22番と、モンパルナスで数か所のアトリエを移った。ダゲール通りのアトリエで大家のモンジョ夫人はモデルを務め、坂東を支援した。

1925年、坂東は終にモンパルナスを離れ、閑静なピエルフィット=スル=セーヌにあるド・ラ・フォンテーヌ通り19番の家に引っ越した。1931年、パリ郊外イヴリーヌ県のギャレ=ヴィレットに移り住んだ(終生この家を持ち続けた)。フランス人の若手ピアニストと結婚し、1931年の画商ジョルジュ・シェロンの死後は特に勤勉で静かな人生を送った。

1938年、パリのグヴィオン・サン=シル大通り23番にアトリエを構えた後、パリ近郊サン=ドゥニ市のダンフェル=ロシュロ通り15番に、そして1940年再びパリのニコロ通り13番に移り、終の棲家とした。度重なる引っ越しは全く板東の制作を乱すことはなく、50年にわたり、画風や画法は比較的変化が少ない。後にやはり画家となる一人娘君枝の誕生を坂東は大いに喜んだ。

1972年のクリスマス、坂東はパリの自宅階段で転倒し、深刻な転倒の衝撃から回復することなく1973年3月1日に帰らぬ人となった。

板東は、1994年に没した妻の傍ら、ペール・ラシェーズ墓地に眠る。

板東敏雄は、モンマルトルからモンパルナスに亘って拠点を置く、国際色豊かな画家の大家族といえる偉大なエコール・ド・パリの一員である。彼らはサロン・ドトンヌやサロン・デ・テュイルリ、サロン・デ・ザンデパンダンに風景画や人物画、肖像画、親密な情景の作品を、個性豊かで独自の道を行き、断固として近代的な画風で描き出品した。まさに他の追随を許さない、世界随一の芸術の都としてのパリの地位をエコール・ド・パリが確固たるものにした。

板東は藤田と共に、パリで画業を全うしようと考えた数少ない日本人芸術家の一人だった。

戦間期にパリに留学した日本人画家は数百名にものぼったが皆、最終的には帰国して日本での地位や職に戻って行った。しかし、坂東と藤田だけは他の者と違って、フランスの地を自ら選択して終生、卓越した同化を見せ、選択の地、パリにて自身の芸術を生み出した。

次に、板東敏雄の公式サイトに掲載されている作品を数点紹介致します。

これらの作品を見ると相当に才能のある画家であることが分かりますが、残された作品の大半がフランスにあることもあって日本での回顧展の開催はおそらく無理なのでしょう。一応、徳島県立近代美術館に板東敏雄の回顧展の開催の可能性があるかを尋ねましたが、「板東敏雄は徳島市の出身であり、徳島出身の作家の中でも特筆すべき足跡を残した作家であることから、本館では開館直後からパリの御遺族と連絡をとり、調査を継続しております。」という回答が返ってくるのみでした。

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