かつて、辻永(1884〜1974)という洋画家がいました。今日では忘れ去られており、僅かに「山羊の画家」として日本美術史に名をとどめる存在ですが、生前は巨匠で、特に1950年代から1960年代にかけて光風会及び日展と日本芸術院第一部に君臨し、洋画壇のドン的な存在でした。
辻永の経歴は「辻永:東文研アーカイブデータベース」の項目に詳しいので一部を引用致します。
辻永は絵そのものはあまり面白くなく、政治力で画壇に君臨するタイプの画家で、だからこそ没後に忘れ去られたのですが、「辻永という男―画壇を牛耳るもの―」(『週刊東京』1959年9月19日号、pp.3-10)という無署名の記事にその政治力の凄さが書かれていますので全文引用致します。この記事が書かれてから70年経過していませんが、『週刊東京』という廃刊した雑誌であることを考えると、断りなく全文引用しても特に問題は無いでしょう。
私も故・安井収蔵(美術評論家)の著書『色いろ調』で辻永の政治力の凄さについては知っていましたが、ここまでとは思いませんでした。
私が疑問を覚えたのは、辻永が1950〜1960年代にこれほどの政治力で洋画壇に君臨したにもかかわらず、今日ではそれについて全く言及されないことです。
辻永の後世の主要文献である『辻永画集』(六藝書房、1991年5月)や図録『辻永展 「山羊の画家」の軌跡』(水戸市立博物館、1986年10月)、図録『万花譜の世界―辻永の植物画展』(水戸市立博物館、1995年2月)を見ても画家としての足跡は書いてあっても画壇政治家としての側面は書いてありませんし、滝悌三氏(美術評論家)が執筆した『光風会史 80回の歩み』(光風会史編纂委員会、1994年4月)を読んでも戦後の辻永については不自然なまでに言及を避けているのです。辻永の政治力抜きに戦後の光風会を語ることは不可能なのに。あと、図録『洋画家たちの青春 白馬会から光風会へ』(中日新聞社、2014年3月)を読むと、光風会理事長(当時)の寺坂公雄氏は戦後の光風会における辻永の役割についてきちんと言及しているのですが、冨田章氏(東京ステーションギャラリー館長)は辻永について全く言及していません。
私は心ある美術評論家の方に辻永の画壇政治家としての側面を網羅した単行本を執筆して頂きたいと切に願っています。売上はともかく面白い内容になることは確実ですので。
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