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人魚と共に

読書感想文 『人魚の眠る家』 東野圭吾

冒頭数ページ目、車椅子で眠る女の子。足が悪いわけではないが歩けない。その子を見た男の子が抱いたイメージが好きだ。
人魚。
歩けない子を人魚というのなら、うちにも人魚がいるなと思って口元が緩んだ。とても素敵な表現だ。

脳死状態と思われる女の子とその両親の物語。在宅での介護。置かれている状況は違うが、何か近いものを感じながら読んだ。
中心にあるのは脳死の捉え方と臓器移植の問題点についてだが、これらに関してはあまりに勉強不足なので語ることを控えようと思う。だがきっとここで描かれている葛藤や苦悩はフィクションではないのだろう。そして大きな選択を迫られた時に苦しみながら決断した選択肢を、批判する権利など誰にもないのだと思う。それぞれの考え方、それぞれの事情があるはずだ。そこに間違いや正解はないのだ。自分の浅はかな価値観を人に押し付けてはいけない。

実際に、娘の診断がついた時に医師から言われた。
今の医療では治すことはできない。それでも治療をしますか、それともこのまま見ますか。
娘の病気は進行性だ。何もしなければどうなるかは想像に難くない。治療を受けるならどのようなことが必要になり、どんな生活になるか医師は説明してくれた。確実にいえることは今までの生活が一変するということだ。その説明を聞いて治療しないことを選択する親も少数ながらいるそうだ。返事は今すぐでなくても良いと言われたが、私たちはその場で治療をお願いした。幸いなことに治療を阻む要因がなかったからだ。だからといって、治療しないことを選択した親を責めることなど誰にも出来ないだろう。もちろん私たちにもそんな権利はない。そしてその決断をしなければならなかったご両親の気持ちを思うといたたまれない。

脳死状態の女の子は最新の技術により自宅で過ごすことができるようになる。もちろん眠ったままだ。母親は女の子のためにとあれこれやってあげるが、だんだん周囲の理解を得られない方向へと進んでいく。あるきっかけで最後には女の子が亡くなったことを受け入れるのだが、その後の母親の言葉が響いた。

瑞穂の世話をしている時、この子を産んだのは私で、その命を守ってるんだっていう実感があって、とても幸せだった。

まさに私がいつも感じていることだった。母親にとって子供は無条件で大切な、守るべき存在なのだ。娘の介護について、大変だねと言われる度に少し違和感があった。大変じゃない子育てなんてあるのか。みんなそれぞれに大変ではないか。その大変のベクトルが大多数の方向とは少し違うだけだ。確かに家には一般的にはないであろう医療機器が多くあり、毎日たくさんの薬を間違いなく飲ませ、夜中でも気が抜けない時もある。大変じゃないと言えば嘘になるが、それ以上に幸せなのだ。娘と過ごせる毎日が。誰より一番近くにいて、一番の理解者でありたい。ただ側にいたいのだ。

この台詞のあとにもう一つ。

この世には狂ってでも守らなきゃいけないものがある。そして子供のために狂えるのは母親だけなの

この言葉には激しく共感した。父親にはなれないからわからないけど、母親になって初めてわかったことだ。傍目には狂っているように見えても、本質はきっと愛なんだろうなと思う。以前自分でも驚くほどキレてしまったことがあったが、それは必ず娘に関わることだった。娘のことだからこそスイッチが入ってしまったらしい。少し反省もしているが守ろうとする本能のようなものかもしれない。今も娘からあまり離れたくないと感じるのは依存かもしれない。でもそう見られていても構わないと思っている。娘の母親は世界中で私だけなのだから。私の気持ちの全ては他の誰にもわからないしわかってもらおうとも思わない。ただ毎日を、娘が快適に、健やかに過ごせるよう努めるだけだ。きっとこの点は物語の母親と同じだろう。

娘も人魚だ。眠ってはいない。笑顔ひとつで周りの人を幸せにする力をもっている。その笑顔にいつも助けられているのは私の方だ。
これからも小さな人魚と共に。

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ai.kawatani
自分に頂けた評価で読みたい本が買えたら。それはとても幸せだと思うのです。

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