「ママ、ちゃんと耳栓した?」聴覚過敏な耳と娘の思いやり
聴覚が過敏だ。疲れがたまっているときは特にひどく、何か対策を施さないと気が狂いそうになる。
「ママ、ちゃんと耳栓した?」
お風呂に入るとき、娘がかけてくれる言葉だ。お風呂タイムに耳栓を忘れると、かなりの確率で耳が痛くなる。浴室は声が響くので、娘の声が凶器になってしまうのだ。
小さな子供の「キャッキャ、キャッキャ」という可愛らしい声で耳が痛くなるなんて、考えたくもない現象だが、聴覚が過敏な私にとっては日常だ。
そんな状況を娘にどうわかってもらうのか考え、
「何か音が響くと、ママの耳は痛くなる」
「耳栓をすると、かなり楽になる」
「それでもお風呂の中では、なるべく小さな声でおしゃべりしてほしい」
などと伝えたところ、娘なりに理解してくれている。
ただ、まだ幼い娘にずっと我慢させたくない気持ちもあるので、
「お外で遊ぶときは、大きい声を出していいんだよ」
とフォローしている。ここで大切にしたのが、
「耳が痛くなるのはママの問題なのよ。でもママ一人では解決できないから、協力してほしいんだ。」
という姿勢をつらぬくこと。
そうすることで、娘は少しずつ理解してくれて、今では「耳栓した?」と聞いてくれるようになったわけだ。
ちなみに娘も聴覚が鋭い。微妙な音の違いを聞き分けるし、声で人のあたたかさを受け取っているようにも感じる。
誰かが鼻をかむ音が苦手で、耳をふさいで逃げ回ることもある(花粉症の夫にとってはつらい現象)。
そんな事情もあるので、もしかしたら私のつらさに共感するところがあるのかもしれない。
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娘の「ママ、耳栓した?」エピソードについて夫に話してみたところ、「思いやりのある子に育ってうれしい」と言っていた。それは私も同感だ。
しかしながら、少しだけ複雑な気持ちにもなった。
実をいうと、「思いやり」という言葉が嫌いだった。人生で3回ほど「あなたは思いやりがない」と言われたことがある。10代20代の多感な時期にだ。
「人として最低」という刻印を押された気がして、すごく落ち込んだ。
そもそも「思いやり」ってすごくふんわりした言葉だ。なぜなら相手によって求められるものが違う。要するにコミュニケーション能力なのだ。
「思いやり」=相手に立場になって考えることだけど、それって相手のことを知らなければ成り立たない。なぜなら、自分にはgoodでも相手によってはbadかもしれないから。
子育てをしていると「思いやりのある子になってほしい」とよく聞くけれど、
・相手の立場や状況を知ろうとする努力
・それに合わせて自分にできることを考える力
・そして行動に移す
という3段階の訓練が必要で、やっぱり簡単ではない。大人でも気持ちの余裕がないと難しいものだ。
そういう意味で、思いやりは当たり前のことではなく、もっと尊いものなのではないかと思う。
特に家族間は、世界観や価値観がぶつかり合う空間だ。その中で幸せに暮らすための特効薬は、やっぱり「思いやり」なのだ。
だからこそ、忍耐強く育んでいきたい。この積み重ねが、いつか娘のお守りになりますように──。