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【倭国と秦王国】7世紀以前の大和朝廷はフィクション〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

※この文書はYouTubeで視聴することも出来ます


こんにちは、今回も引き続き倭国についてお話しさせて頂きます、宜しくお願い致します。


前回は任那や金官加羅から倭国について考えていきました。任那は[ニムナ]と言い、ニムが主要ナが土地でその名の通り加羅諸国の主要な土地、本国を意味する内部呼称であったことがわかりました。
任那を追って様々な古文書を読んでいきましたが、そこでわかってきたのは倭の大王は「〜天皇」と名前を変えられて7世紀以前の倭国の歴史は消されてしまったのではないか、というお話しでした。

今回は7世紀以前の奈良盆地から倭国の実態について見ていこうと思います。
奈良盆地といえば定説では紀元前660年の1月1日(新暦2月11日)に神武天皇が大和地方を平定し、橿原宮で即位してから多くの歴代天皇が皇居を置いたとされる土地です。古代史の舞台として古墳や遺跡が多く出土している歴史ある土地ですが、奈良盆地について記紀の世界観だけでは難しいので、正史とされる六国史からは除外された古文書や、日本国外の歴史書を読みながら古代日本の奈良地方を探っていきます。

早速ですが、[北史]と[隋書倭国伝]を読んでいきます。両書には同じことが書かれています。

[北史]⬇︎原文
明年 上遣文林郎裴世清使俀國 度百濟 行至竹島 南望耽羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷洲 疑不能明也

[隋書]⬇︎原文
明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹嶋 南望聃羅國 經都斯麻國 迥在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也

「大業四年、煬帝(ようだい)は裴世清(はいせいせい)を倭国に遣わせた、倭国までの道のりは百済を経由して竹島に至り、耽羅国(済州島)を望み、都斯麻国を経てさらに東にすすみ一支国に至り、そして竹斯国(筑紫)に至り、また東して秦王国に至る。その人は華夏に同じくもって夷洲となすが、疑うらくは明らかにできない」とあります。

裴世清という人物は日本書紀にも登場していますが、遣隋使である小野妹子と一緒に隋から倭国へ渡来した人物であり官吏(かんり)のことです。
竹斯国に着いて、そこからさらに東に行くと秦王国に着く、とあります。

煬帝の在位期間は604年から618年で、この期間に来日した裴世清は竹斯国(筑紫)のさらに東に秦王国があったと書物に残しているのですが、日本側の記紀にはそのような王国があったとは書かれていません。


7世紀前半の記紀は推古天皇の時代で聖徳太子が十七条の憲法を制定したり、冠位十二階によって朝廷内の序列を冠の色で示していたとされる時代です。
隋の官吏はこの推古天皇の朝廷を秦王国と表現したのでしょうか?

[北史][隋書]にある秦王国の人は華夏と同じで夷洲だとありますが、華夏というのは漢民族のことではありません。夷洲というのは殷の地、殷人という意味です。
中国史では箕子朝鮮の説明箇所に、殷の後身の箕子は殷人で夷族とも書かれていることから秦王国の民は夷洲の殷人ということになります。

竹斯国つまり筑紫国からさらに東へ行くと秦王国に至るとあるので、秦王国の場所は中国地方かさらに東の近畿地方のことだとわかります。


[隋書倭国伝]をさらに読み進めます。
倭の国土についてこのようにあります。
「阿蘇山有り。その名、故無くして火起こり天に接する者、俗以って異と為し、よって祷祭を行う」とあり隋書にある倭国とは九州地方のことだとわかります。

さらに[隋書倭国伝]には煬帝の父である文帝の時代、西暦600年(開皇二十年)にはこのようにあります。
「姓はアメ、字はタリシヒコ、オホキミと号す、妻の号キミ、太子の名はリカミタフリ」とあり、倭王が使節を派遣してきたと記されています。この時[日本書紀]では推古天皇の八年にあたるのでタリシヒコが推古天皇でなければなりませんが、推古天皇は女帝なので妻がいるタリシヒコではありません。
つまり隋から日本列島の支配者とみなされていた、姓がアメの倭王は畿内のいわゆる大和朝廷ではないことがわかります。
ということは、大業3年(607年)に隋に対して送った国書「日出ずるところの天子、書を日没するところの天使にいたす」という国書を完璧なタイミングで送り堂々と外交をやってのけたのは大和朝廷ではなくアマを名乗る倭王だったということです。

では筑紫のさらに東にあるという秦王国について調べていきます。記紀には秦王国について何も書かれていませんが、出雲口伝では秦国の伝承が語り継がれていますので、ここからは大元出版の[出雲と蘇我王国]を見ていきます。この書籍は出雲神族の語り部現当主である富早人氏が書かれた書籍です。

出雲口伝では紀元前3世紀末に秦国から徐福の集団が石見国の五十猛という土地に上陸した、とあります。徐福が連れてきた少年たち(海童)は出雲の主王と副王を洞窟に幽閉して殺害してしまいます。出雲人は主王と副王が同時に殺されたこの事件を嫌って両王家(向家と神門臣家)の分家、約半数を連れて奈良地方のヤマトへ移住することになり、その土地でサイノカミを奉じています。
東出雲人は摂津国三島の人々の協力も受けて、葛城山の御所市辺りを開拓し、事代主を祀る一言主神社や鴨都波神社を建てています。


西出雲人は南葛城方面を開拓して、アヂスキタカヒコを祀る高鴨神社や大年神や高照姫を祀る御歳神社を建てます。
後に村雲命がヤマトに進出し、事代主の子孫の登美家と協力して海部王朝を作ったとあります。
村雲命という人物は、父方(五十猛)の祖父母が徐福と大国主の姫高照姫だと出雲口伝では伝承されています。海部王朝は出雲系の血が濃くなり磯城王朝に変わりました。

富家の事代主の御子たちがサイノカミを奉じてヤマトや伊勢に移住したことを記念して、富家は出雲に出雲井神社を建てたと伝承されています。

出雲口伝では徐福の二度目の渡来が饒速日としての渡来だとあり、この時は筑後国の吉野ヶ里に住んでこの子孫が物部氏となったとあります。
この物部氏のうち徐福の次男家系の物部勢力が紀伊国熊野に上陸し、ヤマトに侵入すると宗教戦争が起きたといいます。
ヤマトにいる出雲族の人々が銅鐸の祭りをすると物部勢力が集団で襲って銅鐸を壊してしまうため、ヤマトの出雲族は仕方が無く銅鐸祭祀を中止して、両王家は銅鐸を集め地下に埋納して隠します。
物部勢力を恐れたオオヤマトネコヒコフトニ大王※以後フトニ大王
は吉備国に逃れましたが、その息子のキビツ彦は出雲を攻め、さらに吉備王となって力を増したフトニ大王は日野川を北上して出雲軍を攻めて出雲族を裏切ります。

同じ事代主の血を分けたキビツ彦に攻められたというのは東出雲族の深い傷となり、これを機に富王家では「強くなった親戚に警戒せよ、目立たぬように生きよ」という家訓を子孫に残しています。
後に出雲の紋章である銅剣の交差紋は王者の象徴を意味していたので、目立たぬように自ら大根の交差紋に変えたと伝承されています。

九州の筑紫平野に勢力を持っていた物部のイニエ大王が日向に進んだ時、当時その土地は都万国と呼ばれいて、そこに都を作ったとあります。
都万国というのは[魏志倭人伝]にも登場する投馬国です。
物部のイニエ大王は巫女を求めて豊王国と連合することを決め、宇佐ノ宮の姫巫女、豊玉姫を后に迎えました。

イニエ大王は短命で都万国で没しますが、その後豊玉姫は夫のイニエ大王の意志をついで、奈良の出雲系磯城王朝を倒し新しい王朝をつくる計画を立てます。そして西暦3世紀後半から4世紀前半頃に物部イクメは奈良地方へ入り新王朝を開きました。ヤマトでイクメ大王とヒバス姫が亡くなった時にその古墳を作る事が方墳を初めて造った古墳先進国のイズモ技術者に求められたとあります。

ここまでが出雲口伝の伝承です。

2回目の渡来の饒速日の子孫が物部になったとあり、物部は豊王国と連合して豊玉姫を后に迎えたとありました。

契丹古伝を合わせて読むと物部が同盟したのは金官加羅の王家になっています。
口伝の豊王国と契丹古伝の金官加羅、どちらが正しいのかと言うと、豊王国は豊日国ともいい、後にこの分国が狗邪国や金官加羅になるので出雲口伝では分国前の豊王国と伝承され、契丹古伝では分国後の国のひとつである金官加羅と書かれたのです、つまりどちらも同じことを言っています。

《物部のイクメは奈良地方へ入り新王朝を開いた》とありましたが、[先代旧事本紀]によると《物部氏が東国へ行った》となっていて、これが[隋書]で秦王国となっている地方です。

【宮下文書の秦王国】
秦王国の存在について次は宮下文書を見ていきます。
宮下文書とは富士文書ともいい、秦国の徐福が子孫7代に渡って編纂・筆録したと伝えられている古文書です。
宮下文書の種本の一つとされている寒川文書は相模の寒川神社に伝えられていた古文書ですが、この書物では第7代孝霊天皇が編纂したとなっています。
また、宮下家が書写した資料には人皇八代大日本根子彦国牽尊(おおやまとねこひこくにくるみこと)[第8代孝元天皇]が編修したとあります。

宮下文書の作成について、秦国の徐福の名とともに孝霊天皇、孝元天皇の名が現れたり、中臣藤原物部麿の名前があることから、この古文書は秦族系の物部らによって筆録されたことがわかり、隋書のいう秦王国と関係が深い古文書なのかもしれません。
宮下文書は天智10年の671年8月近江宮から来た中臣藤原物部麿によって改訂されたことが《作正宇津須》として記録されています。
どこをどう改めたのかはわかりませんが、671年以降の宮下文書はそれ以前のものと内容が変わっていて、それを行ったのは中臣藤原物部麿という謎の人物です。
671年ということは、白村江の戦いから8年後で近江宮は天智天皇が即位した場所です。近江宮にいた人たちは富士山麓にある宮下文書の存在を知っていたことからも、畿内から都を移したとされる天智天皇と秦王国は密接な関係にあったのかもしれません。

紀元前3世紀末に秦国から石見国へ上陸した徐福一族は九州の豊日国と同盟し奈良盆地にも侵入した、というのが出雲口伝の伝承でした。この秦国の王朝は隋書にある煬帝の時代604年から618年頃までは秦王国として日本列島に存在していた可能性があります。
古事記日本書紀から秦王国の歴史を消してしまったため、それに伴って徐福や富士山に関する記述も消えたということです。ではなぜ隋書で秦王国と呼ばれる国の歴史を消さなければならなかったのか、それは7世紀以前の畿内には天皇がいなかったという大和朝廷の虚構がバレてしまうからではないでしょうか。大和朝廷のフィクションを隠し通すためには富士山麓の王朝が不都合になるので、記紀では富士山についてスルーしたのではないでしょうか。
記紀の中に富士山に関する記述が一言も出てこないのはやはり作為的だったと言えます。

[北史]と[隋書]にあった秦王国は記紀には何も記述がありませんでしたが、出雲口伝と宮下文書を見たらどうやら日本列島にあったらしい、というお話でした。
秦王国があった場所は[北史]と[隋書]からは筑紫国の東だということしかわかりませんでしたが、出雲口伝を読むと最初の頃は九州北部に勢力を持ち、後に畿内に東征していたことがわかりました。
徐福伝承は日本各地に残されていますが、畿内にも徐福宮や徐福の墓と共に徐福伝承が数多く残されています。
また[旧唐書]の「日本は倭国の別種である」という記述も気になるところです。

今回は以上です、古代史には膨大な学説がありますので、今回お話した内容はそのうちの一つだと思って頂いて是非皆さんも調べてみて下さい。参考にした書籍は概要欄をご覧下さい。最後までご覧いただきありがとうございました☆

📖この動画の参考書籍📖
鹿島曻著書「倭人興亡史」「倭と日本建国史」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
三輪義熈著書「神皇紀」
岩間尹著書「開闢神代暦代記」
鈴木武樹著書「消された帰化人たち」「日本古代史の展開」
宮崎康平著書「まぼろしの邪馬台国」
吾郷清彦他17名著書「神道理論大系」
藤間生大著書「日本古代國家」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
家永三郎著書「日本書紀」
富士林雅樹著書「出雲王朝とヤマト政権」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
黒板勝美著書「国史大系 日本後紀」

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