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サンカは天皇家と血縁関係があるのか?仏教・源氏・反正天皇・シノガラ組織

この文章はYouTubeで無料で視聴できます。

https://www.youtube.com/watch?v=12EjtoTn9e4


山窩の語源

まずサンカについて簡単に説明すると、

語源は様々な説がありますがここでは2つに絞らせていただきます。

まず一つ目が仏教の言葉のサンガから来ていると云う説です。元々の意味は利害を共にする仲間のという意味で、のちに仏教徒の集団という意味で用いられたり、政治史の領域では共和制という意味も持ちます。

2つ目の説は、山の家と書いてサンカ又はヤマガと読み、一揆に敗れた人達や村から追い出された人達が山へ逃げて家を持った、そして山の漂泊民となりそれを見た村の有識者たちが彼らを山家と呼びました。近世末までの資料では家という字を使用していましたが、警察が山家を取り締まる時に「穴蔵や窪み、山の賊」という意味を持つ「窩」という漢字に書き換えたと言われています。

極めて秘密主義のため歴史資料が少ないサンカですが、山を渡り歩き生活をしていました、北関東や中部山地を拠点としたサンカは冬になると相模や東海地方に避寒にきていたそうです。

サンカと忍術について

10世紀後半〜11世紀頃にサンカの最高位だったとされるアヤタチミチムネ(乱裁道宗)は藤原道隆の隠し子だと言われています。その頃のサンカは13歳になった男子を2年間、丹波に修行に行かせたと言います。なぜ丹波かと云うとミチムネの本拠地だからです。修行内容は、武術はもちろんのこと、隠れ身の術や攻めの術・攻め手を防ぐ術・投げての術・暗中を行く術・秘密連絡術などの忍術が含まれていました。

サンカのネットワークを2年間でガッツリ構成出来るシステムがこの頃にあったことがわかりますね。このネットワークを後に隠密族(シノガラ)と言い、サンカは政財界や右翼組織に流れ込み戦後の混乱の中で力を蓄えたとされています。

サンカ文字

そしてサンカと言えば古代文字のサンカ文字を思い浮かべると思いますが

サンカ文字とウエツフミで有名な豊国文字の一致率は約90%とそっくりです、その理由としては、サンカとウエツフミを書いた大友能直のルーツがどちらもインドにあったことが関係しています。というといきなりぶっ飛んだ話に聞こえますが、順番に歴史をたどっていくと、

まず大友能直は源氏出身で新羅から亡命してきた集団(花郎)の末裔ですが、この集団は元々インドの武士団で構成されていました。ですのでインド出身の新羅在住の人達が日本に亡命してきてその末裔が大友能直だということになります。

次にサンカですが、ルーツは古代インドのスードラ[カーストの最下位]であるアッサム族が故郷から逃げ出し、韓半島を経て日本に入って来た人達の末裔だと言われています。ここら辺はややこしいので別の動画で説明します。

文字をどちらかが盗んだ盗んでないの論争はさておき、ルーツが同じである以上、一致率が90%の文字を両者が所有していても不自然なことではありません。

そしてそれを裏付けるかのように、サンカ文字と豊国文字は古代インドのマウリヤ王朝が使用していたカローシティ文字・ブラーフミー文字に酷似しています。

天皇家との血縁関係

そしてやっと本題の天皇家との血縁関係についてですが、天皇家と言ってもどの天皇と血縁関係を持っていたのでしょうか。

但馬サンカの伝承では、仁徳天皇の第三皇子、反正天皇が兄の履中天皇をクーデターで追い落とした際、因幡と但馬の仲間を連れてきたと云う伝承があります。この但馬と云うのがサンカのタジヒ部族のことで反正天皇の名前を「新撰姓氏録」と「古事記」で見てみたところ漢字は異なりますがどちらもタジヒミズハワケノミコトと記載されていることから、反正天皇自身がサンカ出身であったと研究されています。

さらに「新撰姓氏録」には多治部の職能は皇子の湯沐を管掌すると記されてることから、皇室内で信頼のあるポジションについていたことが推測されます。

そして次に、景行天皇の母親である日葉酢姫命(ひばすひめ)の父親の名が丹波道主命と記載されていることから日葉酢姫命もサンカの娘であり、サンカは天皇家と血縁関係を持っていた可能性があります。

いかがでしたか?今回お話しさせて頂いた内容はあくまでも一説ですので様々な角度から歴史を楽しでくださいね。参考にした史料は下記に記載しております。最後までご覧いただきありがとうございました。

参考史料

「倭と山窩」田中勝也著

「古史古伝体系」吾郷清彦・鹿島曻著

「倭人大航海の謎」吾郷清彦・鹿島曻・佐治芳彦著

「サンカ・廻游する職能民たち」飯尾恭之著


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