【採物】と呼ばれる神降ろしの祭具【神楽と神道】神事を起源とする古典芸能と呪術信仰〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
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こんにちは、今回は日本の神道に関して採物(とりもの)と呼ばれている祭具、太古の民俗信仰についてお話しさせて頂きます、よろしくお願いいたします。
神霊の依代となる祭具や呪物、祭祀や礼拝の際に使用するものは一般に採物と呼ばれています。
採物は神楽をはじめ、神事に発生の起源を持つ伝統の古典芸能において、主役や指揮者の役をする人が手に携える品で、本来は採物を持つ者に神霊がやどるとされ、採物を手にして振れば神霊がその場に発動すると見なされてきました。
例えば能の「狂い物」や歌舞伎の「保名」などで、主演者が笹竹を手にして舞台に現れると、狂乱の異常心理をしめすというのが、演出上の約束ごとになっています。それは笹竹が採物のひとつであり、それを持てば神霊が発動すると信じられ、
巫女達がしばしば笹竹を手にして神憑りの異常状態になったことを起源にはじまっています。
「神楽歌」の諸本は、内侍所御神楽(ないしどころみかぐら)を代表として、平安時代に宮廷を中心に成立した神楽のうち、儀式や歌舞、雑芸(ぞうげい)の部分をはぶいて、歌謡だけを抜き出して記録した物ですが、その中に「榊」「幣(みてぐら)」「杖(つえ)」「篠(ささ)」「弓」「剣(つるぎ)」「鉾(ほこ)」「杓(ひさご)」「葛(かつら)」という9種類の歌謡が「採物歌」という名で収められています。
内侍所御神楽は平安時代の中期、1002年に内侍所の庭先(前庭)で奏されてから、次第にその姿を整えていき日本の神道史上、重要な画期をなしています。
「採物歌」というのは神降ろしの歌なのですが、神霊をなぐさめるための芸能として演じられています。
この背景にはかつて人長(にんじょう)という名の、旅人の装いをした神が、自身が神であることのしるしとしての採物を持ち、多くの家来を率いて祭りの庭に来臨し、一夜楽を奏して遊んだという、古い神祭りの姿をとどめています。
この御神楽は深夜、庭先(庭前)にかがり火を炊くことから始まります、第一段の採物歌は、明らかに神霊の降臨を願う神降ろしの歌であり、これにづつく第二段の前張(さいばり)が神遊びに該当し、夜が明け始める頃の第三段の朝歌が、祭りが終わって神霊の還幸を願う神上がりの歌になっています。
神降ろしの歌に詠まれている先ほどの9種類の採物は、その歌の機能が示している通り、神霊の降臨を願う祭具であり、それを媒介として神霊が発動し、採物自体が神の依代となり、採物を持つ人が神の憑座(よりまし)となります。
9種類の、採物のうち、榊や篠(笹竹のこと)は、現在でも地鎮祭や記念式のような臨時の祭場の中心に立てられ、神霊の降臨を願う依代として人々の礼拝の対象になっています。
このように地鎮祭などの採物は依代として用いられますが、それに対し巫女などが手に持ち、幣などを付けて舞うのは、神霊を降臨させる役割の他に、霊能を保有する呪物としての役割も成します。採物とは元々、祭具や呪物としての役割を持っていました。
幣について調べてみると、この文字の本来の意味は財物を献ずるという意味で、これをミテグラやシデと読むのと、ヌサ、ニギテと読む場合とでは意味が違ってきます。
後者のヌサという言葉は、フサ(房・総)やアサ(麻)などと関係があって、漢字と同じく幣物という意味が強いです。
ニギテというのはアラタヘ(荒妙)に対するニギタヘ(和妙)がつまったもので、タヘとは布帛(ふはく)であり、財物としての布帛類を神に献上することからはじまった言葉です。
※ 布帛=綿・麻布と絹布。織物。
これに対して前者のミテグラの御手とはこの様な漢字をかき、手にとって動かす神の依代という意味です。また、シデとは串につけた紙や布帛に技巧が加わって、ひらひらと垂れ下がるという意味でシデと呼ばれるようになったと云います。なかでもユフシデというのは楮(こうぞ)の木の、樹皮の繊維であるユフ(木綿)をさげた物であり後にユフの代わりに紙を使うようになり、それを垂れ下げる形が色々と工夫され、今日の御幣の切り方となりました。
こうしたシデやミテグラの原型である串とは斎串(いぐし)のことであり、榊の枝や笹竹と同じように本来はそれ自体が神の依代として用いられるものでした。
伊勢神宮で太玉串というと、元々は1メートル半程の榊の枝に楮の樹皮から調製した木綿(ユフ)を付けたもので、これを地面に挿し、立てていました。内宮の神嘗祭で行われた古式の玉串行事では、神官である荒木田氏の禰宜(ねぎ)と、宇治土公氏(うじとこうじ)の大内人(おおうちんど)という神官が太玉串を捧げ持ち、左右に並んで行列の先頭に立ちます。次に大神宮司も同じ太玉串を手にしてつづき、この後に忌部が、朝廷からの幣帛を捧げ、幣馬をひき、幣帛使の中臣以下が参進することになっていたと云います。
「玉串奉奠」という言葉があるように、榊の小枝に紙のシデをさげた玉串は、今は神への供え物と解されていますが、荒木田氏の禰宜の太玉串が元から供え物であったとすると、それが朝廷からの幣帛、幣馬より先に進むのは順序がおかしいのではないでしょうか。また、禰宜たちが行列の先導役にすぎないとすると、この人たちが太玉串を捧げ持つ意味がわからなくなります。
古典には「八十玉串」という言葉があります、これは各地の素朴な宮座の 神事に残されているように、数多くの玉串、斎串を祭場にさし立て、そこで神を祀るという古い神祀りの姿を表した言葉です。ここでの禰宜たちの太玉串は明らかに神霊の依代としての玉串です。それを先頭とした神宮神官たちの行列は、社殿建築のなされる以前、
野外に設置されている祭場に赴こうとする人たちの古い姿をとどめたものと説かれています。
こうした意味での玉串は「延喜式」の規定では、長さ2m半を越すものがあったそうで、これほど大きなものともなれば、御幣やシデとしての幣、いわゆる御幣のように手に携え、採物に使うことなどは不可能です。
その本質は人工の加えられていない榊の枝や笹竹と同様です。
その中には神霊の依代としての機能と、それを手にして振れば神霊が発動するという祭具や呪物としての機能が同時に内包されていて、そのものの形の大きさや、おかれた場所によって
どちらかの機能がより強く表面に現れていると、見ることが出来ます。
日本の神道の歴史が、内部に複雑な形で継受してきた、以上のような宗教意識は、一般庶民がその日常を通じて伝承してきた各種の信仰習慣、民俗信仰と呼ばれるものと密接な関係を持っています。
例えば農作の豊穣を祈願するため、耕の始めに、田んぼの畦(あぜ)に花や青葉の枝をさし、猪や鹿など動物の生き血を流すことや、田んぼの側で性行為やその真似をすること、豊年予祝の歌を歌うこと、などは広く行われてきました。これは田の神や先祖の霊を迎え、豊作を祈願する意味と、それぞれの行為が保有する呪力を、稲や苗に直接作用させようとする呪術としての性質が強いです。
民俗信仰の本質を理解していないと、奇抜な風習であると排除されたり、時代とともに本来の意味とはかけ離れた真似事になっていきます。
神を降ろすための祭具、採物ひとつにしても、今日に至る以前の呪術信仰があり、さらにその威力の到来を願う祭祀と祈祷があり、宗教の世界が生まれます。民俗信仰はこれらが様々な形で抱合しあった姿であると言えます。
現代では、特殊な職種でない限り、「神を降ろす」という言葉は聞きなれないですし、怪しいスピリチュアルオカルトとレッテルを貼られてしまいそうですが、歴史を順に遡っていくと、歌舞伎などの古典芸能や神社などにも、民俗信仰の原点となるヒントが残されています。
今回は採物と呼ばれる祭具から神道の本質を掘り下げてみました。下記の参考書籍もぜひ読んでみてください。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
参考書籍
高取正男著書「仏教土着」
「民間信仰史の研究」
豊嶋泰国著書「神仏祈祷の道具」
岡田精司著書「神道の謎を解く本」
「古代祭祀の史的研究」
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