【新羅史】1代目〜16代目は倭人の歴史だった【方舟神話】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
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こんにちは、今回は古代朝鮮半島の新羅についてお話させて頂きます。宜しくお願い致します。
[三国史記]によれば、新羅は紀元前57年朴氏の赫居世(かくきょせい)によって建国され、西暦262年新羅13代目国王である味鄒(末鄒みすう)が即位したことにより王統は朴氏から金氏に変わります。
この頃は北に高句麗、西に百済があって三国が互いに対立した三国時代ですが、新羅29代目国王である武烈王の時に唐と同盟して百済を滅ぼし、武烈王の子、文武王は663年唐の水軍と共に白村江で倭の水軍を壊滅させ倭国を滅ぼします。
668年唐が高句麗を滅ぼしたため新羅は半島を統一することになりました。
新羅はこの後56代目の敬順王まで続きましたが、最後は高麗の太祖に降伏して国土を譲り、新羅は56代992年にして滅びました。
以上の歴史は、統一新羅時代に作られたストーリーであり、そこからさらに高麗が手を加えたもので偽りの部分が多くあります。
まず初代新羅王の赫居世(かくきょせい)からはじまり、第56代敬順王で終わる系図ですが、1代目赫居世から16代目の訖解王(きっかいおう)までは新羅の歴史ではありません。
本当の新羅建国は17代目国王の金奈勿王(きんなもつおう)の時代から始まっていますので、新羅の建国者であり初代国王は金奈勿王ということになります。
出雲口伝では《辰韓の王家が断絶し、家来が新羅国を起こした。》とありますが、新羅13代目の王 味鄒(みすう)とその弟の末仇の時に二分しており、味鄒が辰韓の王家を継ぎ、弟の末仇が反逆して彼の子供である奈勿が新羅国を建てたことを出雲神族は伝承しているのだと考えられます。
辰韓の王家は断絶していませんが、新羅側からしたら自分達は分家になるのでそれを隠すために統一新羅時代に歴史を偽造しています。
つまり新羅17代目金奈勿王の出身国は辰韓(別名金官加羅)であり、それ以前の初代から16代目までの歴史は辰韓である金官加羅や駕洛国、多羅国、狗奴国などを合わせた歴史であることがわかります。
中国の史書に“新羅”という国名が初めて表れるのも17代目金奈勿王の時で、奈勿王の在位期間は356年から402年なので本当の新羅建国時期はこの辺りだと考えられます。
[三国史記]新羅本紀によるとこの奈勿王から金氏が王家を独占していて、それ以前はほぼ朴氏の王族が新羅王となっています。
280年、281年、286年には辰韓は西晋に朝貢したことが記されています。
その後377年には新羅は高句麗とともに前秦に朝貢し、382年再び新羅は使者衛頭(えいとう)を前秦に派遣して美女を献じたとあります。
これらの記述から、新羅はこの朝貢の時に在位期間中であった奈勿王の時代に辰韓十二国のなかの斯盧国(しろこく)から新羅になったと考えられているのですが、実体は、金官加羅の王族である末仇が自身の領地で朴氏と共に独立し、新羅を建国しています。
文武王陵碑には、新羅の始祖王は金勢漢(せいかん)となっていることからも朴氏の系譜と金氏の系譜は本来は繋がっておらず、偽造して無理矢理繋げたのではないかと考えられます。
※勢漢=村落の首長
奈勿王より以前の朴・昔両氏の歴史は、他国の歴史であることがわかり、その目的は新羅の建国時代を遡らせるためと、新羅が金官加羅の分国であることを隠すためであったと考えられます。
【朴氏のルーツ】
それでは先ず新羅の朴・昔・金3姓のうち朴氏のルーツについて見ていきます。
[三国遺事]には朴氏の祖とされる赫居世について次のようにあります。
原文
《六部祖各率子弟 俱會於閼川岸上 議曰我輩上無君主臨理蒸民 民皆放逸自從所欲 蓋覓有德人 為之君主立邦設都乎 於是乘高南望楊山下蘿井傍 異氣如電光垂地有一白馬跪拜之狀 尋撿之有一紫卵(一云青大卵)馬見人長嘶上天 剖其卵得童男 形儀端美 驚異之俗於東泉(東泉寺在詞腦野北)身生光彩鳥獸率舞 天地振動日月清明 因名赫居世王(蓋鄉言也或作弗矩內王言光明理世也 說者云是西述聖母之所誕也 故中華人讚仚桃聖母有娠賢肇邦之語是也乃至雞龍現瑞產閼英 又焉知非西述聖母之所現耶)位號曰居瑟邯(或作居西干 初開□之時 自稱云 閼智居西干一起因其〈言稱之自後為王者之尊稱〉時人爭賀曰今天子已降 宜覓有德女君配之 是日沙梁里閼英井〈一作娥利英井〉邊有雞龍現而左脅誕生童女〈一云龍現死 而剖其腹得之〉姿容殊麗然而唇似雞觜 將浴於月城北川其觜撥落 因名其川曰撥川 營宮室於南山西麓〈今昌林寺〉奉養二聖兒男以卵生卵如瓠 鄉人以瓠為朴 故因姓朴女以所出井名 名之二聖年至十三歲以五鳳元年甲子 男立為王仍以女為后 國號徐羅伐又徐伐〈今俗訓京字云徐伐 以此故也〉或云斯羅又斯盧》
現代語訳
《辰韓の地には昔六つの村があった(中略)前漢の地節(漢の宣帝の年号)元年壬子(紀元前69年)三月初一日に六部の祖先たちが自らの子弟をつれて閼川(アルチョン)の岸のほとりに集まって相談し、“我々のうえに民を治める君主というものがない、(中略)なんとか徳のある人を探し出して君主に立て、国を起こし都を定めようではないか”と云った。楊山(ようざん)の麓の蘿井(ナジョン)のそばに、雷光のような光が地面に射したかと思うと、そこに一頭の白馬が跪いていて、礼拝するような姿勢をしていた。そこへ行ってみると一個の紫色(青色)の卵があり、白馬は人々を見ると、声高く鳴いてから天にのぼって行ってしまった。その卵を割ってみると男の子が出てきた。顔立ちや姿が端正で美しい。
驚きながらも不思議に思ってその男の子を東泉で沐浴させると体から光彩を放ち、鳥や獣もいっしょに舞い、天地が揺れ動き日と月とが晴明であった。よってその子を赫居世(バルクヌイ)と名づけた。
この日沙梁里の閼英(あつえい)のそばに鶏竜が現れて、左の脇から女の子を1人産んだ。男の子は卵から生まれ、卵の形が瓠(ひさご)のようで合った。その地方の人は瓠を朴と云ったので男の子の姓を朴と呼んだ。女の子の名は彼女が出てきた井戸の名を名前にした。
二聖の年が13歳になると五鳳(前漢の宣帝の年号)元年甲子(紀元前57年)に男は王となり、女は后となって国号を徐羅伐(そらぼる)又は徐伐(そぼる)といい、或いは斯羅(しら) 斯蘆(しろ)とも云った。後世に至ってついに新羅と国号を定めたのである。》
とあります。
ここで“この地の人々は瓠を朴と云ったので瓠から生まれた男子の姓を朴と呼んだ”とありました。これは何を伝えたいのかというと当時の朴氏と瓠(こ)氏が同一であったことを示しています。
[三国史記]では《赫居世三十八年春二月、瓠公(ここう)を遣わして馬韓に聘(へい)す 瓠公はもと倭人なり 初め瓠に以て腰に繋ぎ渡海して来る 故に瓠公と称す》と記されています。
瓠公は朴氏でありかつ倭人でもあるので、朴氏=倭人または朴氏と倭人が“瓠の部族”を共通にしていることがわかります。
次に卵から赫居世が生まれたとありましたが、この卵や瓠から人や動物が生まれるという神話は、笛族・ヤオ族・ショオ族などに伝わる槃瓠(ばんこ)という犬神の神話にも共通しています。
また、金氏の始祖とされる首露王(しゅろおう)も金の卵又は金の箱から生まれたという説話があり、高句麗の東明王も卵生説話を持っています。
これらの卵や箱から人が生まれるというのは、大洪水のあと方舟から人々や動物が出てきたことを伝えるもので、洪水神話の変形です。
つまり苗族やヤオ族、倭人、朴氏、金氏の民族は方舟に乗って生き残った子孫である可能性があります。
次に《沙梁(せと)里の閼英(あつえい)のそばに鶏竜が現れて、左の脇から女の子を1人産んだ》とあり、[三国史記]では右の脇から生まれたとなっていますがここで重要なのは竜から生まれたという部分です。
この女性は閼英という井戸の名前をとって後の閼英夫人となります。
赫居世はこの竜の子である閼英夫人を后にして、その間に生まれたのが新羅2代目の国王、南解次々雄(なんかい じじゆう)です。
竜の子というのは蛇神信仰を持っていたことを表しており、その生まれた子供が南解次々雄とあるので、南解は南解(なか)でナーガ又はナガ族を表しているのではないかと推測出来ます。
ナガ族というのは古代印度アッサム東部のナガ山地を中心に居住するモンゴロイド部族の集合で、ナガ族に一括される主要な部族は、
アンガミ・ナガ族
レングマ・ナガ族
ロータ・ナガ族
アオ・ナガ族
コンヤック・ナガ族
セマ・ナガ族があります。
※三森定男著書「印度未開民族」仏教圏協会「印度民族誌」参照
南解のナカがナガ族であれば、次々雄のジジュはセマ・ナガ族の分派にあるエバトミとジジゥモニの二部族のうち、ジジゥモニのジジゥを漢字で表しているのかもしれません。
南解次々雄はセマ・ナガ族のジジゥモニ族、ということになります。
“ナガ”と言えば蛇という意味ですが、ナガ族の“ナガ”は裸身を意味する“ナンガ(Nanga)”という言葉の転訛だと云われているので蛇の意味は含まないとされています。
ナカという言葉を日本の史書で探してみると、ナカとつく古代の地名がたくさんあります。
これらのうち10箇所のナカ郡からは銅鐸やその鑄型(いがた)の破片が出土しています。
ナカの“カ”は上代日本語、古代朝鮮語、高句麗語、夫余語、蒙古語、インド語、セム語、シュメール語でもあり「人々」や「部族」という意味として紀元前3000年紀から紀元後の5.6世紀までは通用していた言葉です。
中国江南語の“ナ”が蛇を表していたり、“ナガ”がインド語やマレー語の“竜蛇”を表しているように“ナ”は蛇です。
古代において地名は種族や民族を表していたので、先程の地名のナカは蛇族であることがわかります。
紀元前13世紀の甲骨文での“南”は青銅製の楽器を叩く人の象形で表されているため銅鐸を鳴らす人は“南”(な)であり南方や南加、蛇族だったという当時の習俗を殷人が絵文字に写したと考えられます。
日本の銅鐸と蛇族の関係は[出雲口伝]からもわかりますが、[古事記]でも天孫降臨以前の日本を《アシハラのナカツクニ》として蛇族の存在を記しています。
日本史の氏族では中臣氏が朴氏や金官加羅国へと繋がっていきます。
出雲神族や瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から応神天皇までによく見られる末子相続の風習ですが、セマ・ナガ族の習俗をみると、首長(酋長)はその長男を新たな土地へ派遣して新しい村を立てさせるため、この場合は末子が家にとどまり父の後継ぎになるとあります。
元来、末子相続はこのような習俗の中でうまれた習わしであることがわかります。
先程の朴氏と倭人と瓠公の関係性を考えると、新羅の朴氏がナガ族であれば倭人である瓠公(ここう)もアッサム山地の周辺にいた可能性があります。
アッサム山地では、ナガ族の西にモン・クメール語族のカーシ族が住み、そのカーシ族の分派にワ族という部族がいます。
この部族はオーストロアジア語族のモン・クメール語派の少数民族で、自らを“アワ”と自称しています。
カーシ族について「印度未開民族」を引用すると、カーシ族はアッサム州カーシー山地の西部に住むモンゴロイド部族で、伝承によれば彼らは東或いは北方から移り、シルヘートという土地に定住していましたが大洪水のために現在の山地に移り住んだと云われています。
さらにカーシー族は文字を有していましたが、この大洪水によって書物と文字を書く術を失ったという言い伝えがあります。
カーシー族は、カーシー及び同種・同語のシンテング族、ワ族、ボーイ族、リングンガム族の部族から成り、各部族は更に多数の族内婚の氏族に分かれており、カーシーとシンテングの両部族は最も多数の氏族を有しています。
氏族は大体王族、司祭者、貴族、平民の身分的秩序を有していて、この山地は多数の小土侯国に分かれ、
※ 土侯国=首長国
それらは1人の首長によって治められていますが、首長の権限は制限されており、司祭者や貴族の構成する一種の議会に政治の全てをはかることになっています。
首長は王族の氏族、或いは司祭者の氏族でなければならず、首長の継承は母系を通じて行われています。
首長の母は王族或いは司祭者に属する氏族の出でなければなりませんが、父はそれらの氏族に属する必要はありません。
母系の継承順序は事細かに定められています。
カーシー族は蛇を崇拝し、蛇神のことを“トゥレン”と言います。
一種の人身御供(ひとみごくう)の慣習があり、次のような伝承を残しています。
『かつてチェラプンジという場所の近くに洞窟があり、大きな蛇が住んでいて人間や動物に害を与えていました。ある男が山羊の群れを洞窟まで連れて行き、一匹づつ蛇に与えると蛇は口を開いて山羊を食べようとしました。その時男は赤く焼けた鉄石を口に投げ込み退治しました。その蛇は切り裂かれ、食べられてしまいましたがただ一ヶ所だけ残り、そこから沢山の蛇が出てきました。これらの蛇は人々の家に各々身をよせ、その家の人が時折人間の血を与えると、その家には豊穣と富がもたらされます。蛇を満足させるには、髪と指先と少しばかりの血が供えられ、多くの家は蛇を保有しているとされ供え物を調達するためにしばしば人間が殺されることがある』
と伝承されています。
※ 人身御供=神への供え物として人を捧げること
宇佐八幡など、西日本に残るトウビョウ信仰には蛇を甕(かめ)に入れて祭り、時に人肉を与えると伝承されており、四国では人目につかないように土製の瓶にトウビョウを入れて、台所に置いておき、ときどき人間同様の食事や酒を与えるといいます。
トウビョウを粗末に扱えば飼い主に襲いかかるという言い伝えもあり古代より大切に祀られてきました。
これらのトウビョウ信仰はカーシー族の蛇神である“トゥレン”にも繋がると考えられます。
そしてトウビョウを信仰する国として[桓檀古記]では東表国(とうびょうこく)という国が登場し、[契丹古伝]では第37章に東表王が登場しています。
東表国というのは紀元前7世紀頃から宇佐地方に存在した国で、この地域は時代や書物によっては豊日国や豊国、豊日別と呼ばれ、さらに後世になると東表国の地は狗邪韓国となり、狗邪韓国は朝鮮半島南部にも領土を広げ、朝鮮史では駕洛国や金官加羅国と記されています。
ではカーシー族の部族のひとつであるワ族について調べていきます。
ワ族にも瓠に纏(まつ)わる神話が残っており、瓠を割ると一つから全ての動物、人類が出てきたとあることからナーガ族やワ族は大洪水を免れた氏族の子孫である可能性があります。
ワ族のワは瓦または佤と書かれ、苗族・ヤオ族のことを指しています。
ワ族の分派にはラ族という民族があり、小さな黒人を意味するネグリート(ネグリト)と混血しており、ラ族はシナ・チベット語族の中のヤオ族の支派となっているのでやはりワ族は倭人にも繋がっていきます。
新羅の朴氏に話を戻すと、朴氏は瓠公(ここう)と同族であり瓠公は倭人だったので[三国史記]にあった倭人が瓠をもって海から渡って来たというのは、倭人が方舟神話をもって海を渡ってきた、ということになり、ここで云う倭人はナガ族、カーシ族、さらにその支派のワ族などに関連がある民族でした。
さらに朴氏の祖である赫居世と竜の子である閼英(あつえい)夫人から生まれた南解次々雄という名前から、ナガ族の中でもその支派のジジゥモニ族が朴氏に繋がるのではないか、というお話でした。
今回は新羅を構成していたとされる三姓のうち、朴氏のルーツを中心に歴史を見ていきました。
日本人とナガ族は第二次世界大戦中の1944年、インパール作戦の時に接触しており、当時の日本軍に対する 印象を記録した文章には、外見が自分たちとそう違わないことから多少の親近感があったと記録されています。
以前古代文字の動画でお話させて頂いた、アヒル文字を代々秘蔵していた対馬国阿比留氏や、筑紫の安曇氏は朴氏の歴史にも繋がると思います。
古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思って頂いて、ぜひ皆さんも調べてみて下さい。
下記の参考書籍もぜひ読んでみて下さい。
最後までご覧頂きありがとうございました♡*
📖この動画の参考書籍・論文📖
三森定男著書「印度未開民族 」
鹿島曻著書「桓檀古記」「倭人興亡史」「倭と日本建国史」
大林太良編集「民族の世界史6東南アジアの民族と歴史」
石井米雄著書「世界の歴史14インドシナ文明の世界」
一然著 金思燁訳「三国遺事 完訳」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
杉勇・三笠宮崇仁著書「筑摩世界文学大系古代オリエント集 」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
三笠宮崇仁・赤司道雄著書「フィネガン古代文化の光」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
藤間生大著書「日本古代國家」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
太田哲氏(2018)「ナガ族におけるインパール作戦時の日本兵との接触の記憶と伝承」https://tama.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=1080&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1
吉野晃氏(1998)「東南アジア研究35巻4号1998年3月焼畑に伴う移住と祖先の移住」https://kyoto-seas.org/pdf/35/4/350408.pdf
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