大田区の町工場のこれから…モノづくりの未来を考える
この8月に知り合いの板金加工屋さんが廃業することになった。
大田区に腰を据えて板金加工一筋50年、長年夫婦で頑張ってきた人柄のよいお爺さんでした。何度かお世話になったことがあって、いつも頼まれもしないのに「ついでにこれもやっておくよ」と愛想良くサービスしてもらって、僕は何度も助けられていたので残念でなりません。どうやら後継者がいなくて、だいぶ前からやめるタイミングを見計らっていたとのこと。
大田区といえばモノづくりの街として有名だが、ピーク時の昭和58年には約1万社あった工場は、現在では4,000社を下回り、今も減少の一途を辿っている状況です。
日本全国の製造業の事業所数を見ても1983年の45万件を頂点に17万件にまで減少していることを踏まえると「産業構造」が変化したと言わざるを得ないと思います。かつて栄華を極めた家電メーカーなどはことごとく消え去ってしまった。電子レンジや冷蔵庫などあらゆる家電製品の筐体やパーツは、この板金加工で作られていて、お爺さんの工場でもハコモノと呼ばれる筐体を朝から晩まで作っていた。
しかし、時代とともに大量のロットで受注できるような仕事は激減し、試作品加工が中心の生産体制となっていった。
このような小ロット、変種変量生産に対応するために生産技術や機械は高度化していき、気がつけば産業の持続性という意味で大きな変化が起きた。
かつては高校を卒業して、工場で腕を磨きつつ300万円も貯めたら、中古の旋盤や切削機などの機械を購入して独立していくというキャリアを描く若者が多かった。しかし現在では、試作品でも作ろうとすれば金属を切断するための最新のレーザー加工機あたりが必要となる。
レーザー加工機+レーザー発振機+チラー+自動棚+CAD/CAM=約1億円…泣
機械1台持って独立なんて夢のまた夢となってしまった。もちろん自己資金だけで開業なんて出来るわけないので融資や補助金に頼ろうとするが、国も銀行も創業者にはあまりにも厳しくて審査を通ることはまずない。
一般的には開業して10年後まで生き残れる会社は1割しかない状況で、貸し手とすれば創業者に貸した債権はすぐにヨウカン(要管理債権)になってしまって、引当金を積まなければならなくなるので、とても近づきがたい。
産業構造の変化により工場が減少したのですが、大田区の場合は町工場ならではの事情もある。もともと江戸時代に海苔の生産で栄えており、昭和に入ると軍需品の需要が伸びると都心部から工場が移転してきて産業の集積が見られるようになった。高度成長期には東京都で工場数1位の工業団地に発展してきたという歴史があるのです。ちなみに今でも大田区には海苔工場が残っています。
このような歴史の中で「仲間まわし」という独特の受発注ネットワークが築かれていき、いわゆる「株式会社大田区」ともいうべき産業集積の強みが出来上がったのです。
そんな大田区の工場が抱える問題は「住工共生」なのです。
高度経済成長期を抜けるとバブル期の地価高騰が大田区の工場経営に大きな変化を起こしたのです。
安定収入の不動産オーナー > 自転車操業の工場経営
工場のようなまとまった土地はマンション建設にはちょうど良かったのです。そうすると徐々に他の土地から多くの若者が流入してくると新たな問題が生じてきたのです。
「音がうるさい」「夜中まで明るい」「臭い」と隣近所の住宅に引っ越してきた住民から、苦情がひっきりなしに上がるようになってきたのです。
…といっても今の機械って技術の進歩のおかげでほんと、驚くほど静かになりましたが…
こうした苦情やトラブルがあちこちで相次ぎ、ある工場はあきらめ廃業し、ある工場は関東の他の県へ移転することになったのです…
こんな大田区の町工場の未来はどうあるべきでしょうか?ちょっと目線を上げてマクロ的な視点で考えてみようと思います…
…今日はちょっと長くなって来たので次回続きを書きたいと思います…ってオチがなくてスミマセン。是非、この記事を読まれたあなたもこの問題を一緒に考えていただけますとありがたいです。
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました。
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