
令和阿房列車論~その15『鉄道無常~内田百閒と宮脇俊三を読む』(3)
前回までのおさらい
前回までのおさらいとして、前回の記事をリンクしておきます。
第5セクション~第7セクション
5.「鉄道は兵器だ!」の時代へ
昭和初期を昭和20年までとしたならば、前半は『富士』『櫻』『燕』といった愛称つきの特急が登場する華やかな時代だったけれども、後半は戦争の時代に突入していった時代でした。
このセクションで、百閒先生も宮脇先生も「戦争」に対しては好き嫌いで言うと「嫌い」だったことが書かれています。
百閒先生は陸軍や海軍の学校で教えていた事実はありますが、生活のためにやむなく就いたと本書では記されています。
一方、宮脇先生の父 宮脇長吉は陸軍出身ではあったものの反軍閥の立場にありました。宮脇先生は当時まだ10代の旧制高校に通う学生で、勤労奉仕に駆り出される日常の中で、昭和19年に完成して間もない関門トンネルへの旅行を敢行していました。
両者の戦争嫌いというスタンスとともに、筆者は「鉄道好きとは、すなわち縛られることに対して敏感な人々」と捉えて、鉄道好きは権力に対して反発を見せる志向があると書いてあります。
ところで戦時中のことについて、百閒先生は『東京焼盡』、宮脇先生は『時刻表昭和史』に詳しく書かれているので、ご興味のある方はご一読ください。
(私も本書を読み終わったら読もうと思います)
6.東京大空襲を生き延びて
東京への空襲が本格化した昭和19年秋以降から東京大空襲にかけて、百閒先生と宮脇先生とでは年齢の違いもさることながら対応の違いにも興味深いものがあります。
百閒先生は既に50代半ばであった上に相当の怖がりであったので空襲警報が鳴る度に怖がっていた様子が書かれています。
一方の宮脇先生はといえば家族のために遠方まで買い出しに出かけたりもしていました。
そして、東京に空襲があった日にも鉄道は動いていたことと、昭和20年8月15日の敗戦を迎えるのです。
7.敗戦の日の鉄道
敗戦の日を迎えた百閒先生と宮脇先生の心情には迎えた年代の違いがありますが、迎えた場所による違いが大きく影響したのかもしれません。
東京大空襲で自宅を消失した百閒先生は、近所の松木男爵家の庭番が使っていた3畳の小屋に住むようになりました。
終戦の日、玉音放送を聞いた百閒先生は自身で考えることができないほど涙が溢れたのでした。
一方の宮脇先生は、終戦の日を父・長吉と共に山形県の今泉駅にいました。父の炭鉱視察の後、疎開先の新潟県・村上へ戻る途中で今泉駅の駅前広場のラジオから玉音放送を聞きました。
若かった宮脇先生も「よくわからないながら滲透してくるものがあった」と記していますが、終戦の日でも汽車は走っており、米坂線の坂町行きに乗車するのでした。この時、宮脇先生は「こんなときでも汽車が走るのか」と思いながらも「私のなかで止っていた時間が、ふたたび動きはじめた」と感じたのです。
時は流れて昭和51年、宮脇先生は30年ぶりに今泉駅に降り立ち、長井線の今泉~荒砥間を完乗したあと今泉駅で深い感慨を覚えたのでした。当時49歳の宮脇先生は国鉄全線完乗を目指していた頃でありました。
そして、著者の酒井先生も令和元年に宮脇父子の足跡を令和の時代に追ったのでした。
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