見出し画像

近況。

 やっと冬眠から覚めた。長かった。
 わたしの場合、躁鬱の変化はあるが、元々の性格がさして明るくないので鬱の方が長い。主治医に云わせると、躁状態に陥る鬱病だそうな。
 今回、二月頃から今月の初めまで、殆ど何も出来なかった。現代の一般人からすると非常に不潔だと思われるだろうが、風呂(我が家の場合はシャワーである)を使うのが週に二度などと聞いたら、「信じられない」「クソ汚ねえ」と感じるだろう。
 精神状態がややこしいわたしの場合、発達障碍もあるので同じ方には判るだろうが、一般的に簡単と思われる日常生活が困難なのだ。特に整理整頓、掃除、洗い物、そして入浴。十代の頃、鬱が最も酷かった時は一ヶ月ほども風呂に入らなかった。
 否、入れなかった。
 端的に云えば面倒臭いだけなのだが、それだけで済むことではない。自分でも己れの状態が好ましくないのだ。体はベタベタと痒いし、頭髪などコペコペで、鬱陶しいから手拭いを巻いていたほどである。
 それでも尚、入浴を忌避する。自分でも判らない。だからこそ『病気』なのだろう。
 日常のことが出来ない。外へ出られない。外部と接触したくない。
 そんな状態が、厭で辛くてしょうがない。
 だから、更に落ち込む。
 鬱と謂う状態が判らないひとでも落ち込むことはあるだろう。簡単に云えば、鬱とは極端な落ち込みである。自分でも如何にもならないし、他人にも、専門家にも、如何することも出来ない。はっきり云って、薬でなんとかなるものでもない。
 鬱にもそれぞれの症状があるから一概には云えないが、わたしの場合は必ずそこから脱する。十三才からの経験上、確実に判っている。明けない夜がないのと同様に、明けない鬱も(わたしの場合)ないのだ。
 わたし自身も主治医も、鬱より危惧するのが異常な躁状態である。わたしには湯水の如く使える現金、資産などないが、その代わりにもの凄く行動的になる。行動と謂っても、見ず知らずのひとに話し掛けたり他人に迷惑の及ぶ行為をする訳ではない。ただひたすら、歩くのだ。
 往復十キロとか。
 ないだろう。
 行ったことも聞いたこともないところへ、てくてくと一時間半ほど掛けて行く。何もないところへ行く訳ではなく、今回の場合で一番遠かった場所はスーパーマーケットのSEIYUであった。
 何度か歩いて行ったことのあるイオンの更に向こう。割と最近スマートフォンを使い始めたので、地図案内が巧く扱えない。それでも直線である程度まで行けるようなので、ひたすら歩いた。冬なのに、汗をびっしょりかき、上着を手にして歩きに歩いた。
 今、思い返すと、正気の沙汰ではない。そのスーパーマーケットで買ったものと謂えば、レトルトカレーのみである。西友は無印の親会社だけ(だった?)あって、カレーの種類が異様に充実している。しかし、わたしからすると二百円以上のレトルトカレーは高級品なのだ。
 なので北野エースのカレーを買ったことは一度もない。
 否、あった。福袋的なもので、ミニバッグが慾しくて五個セットのを買ったことがある。貧乏が板についていないと、こう謂う馬鹿なことをする見本だ。
 そう、わたしは高級食材店を見るのが大好きなのだ。十代の頃は栄にあった明治屋。そこに並ぶ外国のパッケージを眺めるだけでうっとりとし、至福の時を過ごせたものである。たまに奮発して買ったのは、何故かアメリカか何処かのネクターで、甘くて口に合わないこと甚しかった。
 今でもその傾向は続いており、成城石井、カルディ、北野エースなどを眺め廻すのを何よりの楽しみとしている。顧客としては最低であろうが、カルディ以外では殆ど何も買わない。
 カルディでは買ってしまうのだ。
 それも企画ものを。
 馬鹿である。
 しかし、その馬鹿まで取り除いてしまったならば、わたしは何を糧に生きてゆけばいいのだろう。生きる最低限のものしか買わない。つまりは食品が主で、その上鬱で家事が出来ない為、生鮮食品は買っても意味がない。寧ろ買って家に存在することがストレスになる。
 不経済かも知れないが、惣菜を買ってくるのが一番(この場合)適当なのだ。栄養とかなんとか云っている場合ではない。エコだのなんだの講釈を垂れていたら、寝床で腐って死ぬ羽目になる。
 鬱病のひとに取って難有いのは、夕方からは活動的になることである。どんなにどん底でも、取り敢えずわたしの場合は夕方、五時以降くらいからは外へも出て行けるようになるのだ。

 こうした面倒臭い事情を切り抜け、やっと(なんとか)日中に活動出来るようになった。この間など、図書館へ行ってきた(汗だくになって。何故なら片道十五分掛かるから)。
 これは凄いことなのだが、近隣の図書館は品揃えが極めて貧しい。それはもう、わたしの懐のように貧しい。行っても目指す本、読みたい本がない。悉くない。逆に素晴らしいと思えるほどだ。
 何しろ、閲覧する卓子がない。パイプ椅子しかない。素晴らしい。なんと謂うミニマルな図書館であろうか。
 図書館がミニマリズムを極めていて、良いことは何ひとつない。そもそもそれでは機能を果たせていないと思う。
 如何だろうか。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?