「個体」と「群れ」としてのぼくらに残された宿題。古代ゲルマン人からの手紙。
確認してみる。
母親の胎内から出てきた瞬間から、ぼくらには「個体」としての生命が与えられる!
この瞬間を「誕生」という。
そしてこの「誕生」から始まる時間のことを「人生」と呼ぶ。
この「人生」は「死」によって完結する。
母親の胎内で始まった生命現象が停止する瞬間。
それが「死」だ。
この一直線の時間の流れ。
よーいドン!からゴールテープを切るまでの流れ。
ゆりかごから墓場までの止まらない時間の流れ。
この時間軸上のどこかに、ぼくらは今も存在している!
ひとまずそんな風に、今ここの現在地を想像してみる。
この「人生」という時間の上で、僕らは「個体」としての意識を経験する。
文字通り、「個」としての「体」を持っているのだと。
ぼくらは「体」を持つ生命現象だから、「生命」を失うことを回避しようとする。
ケガをしないように安全な場所を求めて動くし、腹を下さないようにジャガイモの芽は丁寧にとり除く。
ぼくらには、「個体」としての生命を守ろうとする意識が常に働いている。
これを「個体意識」という。
そしてその根底にあるのは「自己保存」という本能だろう。
その一方で、人間であるぼくらは常に「群れ」を作り生きてきた!
そもそも生まれた瞬間から、人間は父と母という2人の「個体」に出会うわけだ。
現代で「組織」というのは「3人以上の集団である」と定義されることが多いが、それならぼくらは生まれた瞬間に「ある集団」に属すことになるだろう。
「家族」である。
遺伝子を分け合う、生物学的なつながりを持つ個体との出会い。
父と母、そして幼い自分という3人以上の集団の形成。
そこから人生がはじまる!
生まれた瞬間、ぼくらは「個体」でありつつ、「群れ」の一員でもある。
「個体」と「集団」
この2つのレイヤーを、ゆりかごから墓場まで経験するのが、人間として生を受けた僕らの人生体験だ。
心理学者のアルフレッド・アドラーは、人生の悩みの99%は「対人関係の悩み」である。と言ったそうな。
まさにそうだろう!
「個体」でありながら、ある「集団」にも属すぼくらの周りには、常に自分とは異なる「個体」である他者がいる。
他者は、自分とは異なる「個体」である。
感じ方、考え方、体格、体重、体臭、心拍数、呼吸のリズム、肌の色、目の色、髪の色、性別、年齢、足の長さ、手指の長さ、好きな食べ物、嫌いな野菜、お気に入りのアーティスト、スマホのホーム画面、リモコンの置き場所、食器の洗い方、爪の切り方などなど。
なにもかもが、わたしとは異なる状態で存在する生命現象である。
だから他者の存在は、基本的にはノイズだ。
大いなる悩みの発生源となるのは必然だろう。
しかし、他者がノイズであり、99%の悩みの発生源であるならば、どうして人間は「群れ」を作ることをやめなかったのだろう?
その答えのひとつに、「肉体の弱さ」がある。
人間の赤ちゃん1人にかかる養育期間は、他のどの動物よりも長い。
まったくの無力な状態で生まれる赤ちゃんが、それなりに一人で出歩けるようになるまでには、膨大な手間と時間がかかる!
シカの赤ちゃんが生まれてわずか1時間でブルッブル震えながらギリギリ歩けるようになるのとは全く違っている。
5年=1825日くらい経ってようやく、はじめてのおつかいをギリギリでこなすことができる。
それが人間である。
ただ、この「はじめてのおつかい」だって、他のどの動物にも真似できない高度なコミュニケーションであることは間違いない。
単純な移動だけではなく、「通貨による交換」という概念を理解する必要がある。
それができるのは、地球上では人間の脳だけだ。
しかしそれでも、「はじめてのおつかい」程度では、人間社会で生きていくことはできない。
ぼくらはさらに膨大な知識やルール、または慣習を学び、瞬時に使いこなせるようにならなくてはいけない。
なぜなら、ぼくら人間が作る「群れ」は、とても高度な「群れ」なのだ!
その高度な「群れ」の一員として活動するためには、高度な「教育」を通して、高度な「思考回路」や「行動様式」を修練する必要がある。
それにかかる手間や時間は膨大なのだ。
なぜ人間は高度な「群れ」を作るのか?
それは、「肉体が弱い」からである。
素っ裸でサシで戦ったら、たいがいの動物には確実に負ける。
ぼくは千葉の山でシカとイノシシ、そしてインドで野生のサルに至近距離で遭遇したことがあるけど、いずれも生命の危険を感じた。
「あ、オレ殺されるわ!」
この実感は、本能的に瞬時に察知できるものなのだ!
21世紀に育ったぼくの体にも、そのスイッチは確実に存在していた。
遺伝子レベルで体に刻み込まれている、人類共通のアプリケーションの一つである。
「人間はどの動物よりも弱い」
このことをぼくらは実感として知っている。
だがそれと同時に、「人間はどの動物よりも賢い」
発達した脳機能によって、人間は自身の弱点をカバーすることに生き残りを賭けた!
それが、高度な「群れ」を形成することにつながっている。
「個体」と「集団」
この2つのレイヤーを同時並行で生きること!
この宿命の上に、ぼくらはいる。
ゆりかごから墓場まで止まらない時間の流れの中で、この宿命から逃れる術はない。
そこに人間の葛藤がある。
それは言い換えれば「自分らしく」と「みんなのため」の間の葛藤だろう。
もしくは「個人主義」と「全体主義」かもしれない。
「自由主義」と「社会主義」かもしれない。
「自分であること」と、「みんなの一員であること」
これを同時に扱うことが、ぼくらには難しいのだ。
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」
”one for all, all for one."
三銃士の中で引用されたこの言葉は、古代ゲルマン人に伝わる箴言らしい。
ことわざというのは、理想的ではあるが実践するのが難しいから、わざわざ言葉にしてまで残すものだろう。
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」
”one for all, all for one."
口にするのは簡単だが、それを人生の中で実践しつくすのは難しい。
けれどやはり問題点は、古代から変わらずこの一点なのだ!
「個体」として生まれ、死んでゆくぼくら。
その時間を、「群れ」として生きるぼくら。
そのために、高度な「教育」を必要とするぼくら。
その旅路は、まだまだ途中である。
1000年後の未来人から見れば、ぼくら21世紀の民も、古代ゲルマン人も、変わらぬほどの古代人かもしれない。
「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」
”one for all, all for one."
それが文明の「共通常識=コモンセンス」になるまで、ぼくらの目の前には宿題が山盛りだ。
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