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甘いみかんには、愛があるのだ

成長過程のみかんに暴言を吐き続けると、腐ってしまうらしい。管理栄養に詳しい後輩の女の子から聞いたことを、なぜか今思い出した。確かその話をしていた時、わたしはバス酔いかなんかでひどく具合が悪かった気がする。箱根のおいしい蕎麦屋さんに行くためにバスに乗ったら、山道が思いのほかくねっていて、ついたころにはわたしはフラフラ。食欲など皆無だったが、不幸中の幸いで人気の蕎麦屋には列ができていて、並んで待つ間にわたしは酔いをさますことができたのだ。それほどまでにコンディションが悪い状態でも、みかんの話を聞いて「えー!」と声をあげ驚いた記憶がある。成熟に向けてまるいからだを揺らすみかんに、「くそ」や「しね」などと言い続けると、上手に育つことができずに枯れてしまうものがあるという。逆に、毎日「おはよう」と挨拶をし、「ありがとう」「だいすき」などポジティブな言葉をかけると、平均的なものよりも甘くみずみずしく育つとのこと。

後輩曰く、農家の方は野菜や果物をおいしく育てるために、愛情をもって作物に言葉をかけてあげることが多いそう。アンパンマンに出てくるジャムおじさんの「おいしくなあれ」には、そんな魔法があったのか。言葉をかけて愛情を注ぐことで、おいしくなってくれるらしい。「へー、すごいなあ」という、ひねりのないシンプルな感想で頭がいっぱいになったわたしは、その時はそれ以上つっこまず、きりのいいところでその話題を終えた。悲しいバス酔いが落ち着いたころ、蕎麦屋の順番が来て、箱根のおいしい蕎麦をずるずるとすすったことにより、そのまますっかりみかんのことを忘れてしまっていた。
今になってまた思い出して気になってしまった。もう止まらない。なぜ、今。

みかんは人間の言葉がわかるのだろうか。人間が放つ言葉の種類に応じて、ストレスや幸せを感じたりするんだろうか。脳も心臓もないはずのまんまるボディには、わたしたちが知らない秘密がたくさん詰まっている気がして、なんだかむずむずする。

そもそも、みかんはなんのためにこの世に産まれたのだろう。甘くてみずみずしくて、剥くとふんわり漂う優しいあの香り。オレンジ色がいくつかまとめられて赤いネットに入れられてお店に並ぶ様は、季節の変わり目を感じて情緒がある。
みかんの存在意義を考えたところで、わたしたち人間にとっては「食べるため」以上の意味がどうしてもみつからない。人間の手によって、人間に食べられるために命を芽吹く、本当にそれだけなんだろうか。もしも人間がいなかったら、彼らは食べられることはないけれど、捕食者がいなければ育つ意味もないのではないだろうか。そんな答えのないことを永遠に考えても、みかんが言葉を発することはないから、真実は闇の中だ。想像することはいくらでもできるけれど、みかんの声を聴くなんて叶わない。こんなことを考えるだけ、多分無駄だ。

この地球に存在するあらゆる生命は、食物連鎖を牛耳るわたしたち人間によって価値が定められる。牛や豚や馬は、いつか食べられるために牧場で育てられ、魚や貝は、圧倒的にわたしたちとは生きる環境が違う水の中にいても道具を使って釣られて、やがて食べられる。猫や犬やうさぎは「かわいい」という理由で人間の手によって愛でられ、日常生活では手なずけられないと判断された生き物は、娯楽として鑑賞できるように動物園や水族館に収容される。

反対に、見た目が気持ち悪い昆虫類は、彼らがどんなに地球にとって役に立つことをしていたとしても、残忍に殺される。山や森でひっそりと暮らす動物たちは、わたしたち人間になんの危害も加えないのに、土地の開発のために住処を奪われる。

みかん然り、植物も同じだ。人間の身体に害がないものは、どんな栄養素があるかを調査されて、市場に売り出される。人間の舌に合えば、お金で価値が決められて、量産できれば安くたたき売られる。人間の身体に毒であると判断されれば、途端に不要で危険なものとなり追いやられ、地球が始まって長い年月をかけて子孫を残し続けていたかもしれないきのこでさえも、あっという間に駆除の対象となる。美しい花には咲く権利があるが、醜く薬としても役に立たない草木は、自然のなかで身を隠し音を立てずに生きていくしか道がない。
何の罪もないのに、わたしたち人間という存在に怯えながら生きている命が、まだまだいるのだろう。

人の偏見によって価値が決められてしまった命のどれもが、人間の言葉を喋ることができない。食べられたくなくても、飼われたくなくても、死にたくなんてなくても抗うことなどできずに、人の手に堕ちる。
わたしたちは一度だって、本当の意味で人間以外の命と意思疎通できたことがあっただろうか。スーパーの魚売り場に並んでいるすべての魚は、人の手によって殺められ沈んだ目をしていて、切り落とされた新鮮な赤身の後ろには、解剖の際に食べられないと判断されて捨てられた頭や臓器があるのだろう。

そう考えると、食品売り場なんて生き物の墓場でしかない。値段がつけられ、ときには安売りされる命の数々に、本当はわたしたちに伝えたかった何かを抱えながら死んでいった動物たちがいるのかもしれないと考えるだけで、人間の存在が間違いのように感じてしまう。
はらわたが煮えくり返りそうだ。人が生きていくために、こんなにもの命が毎日死んでいる。

言葉を話すことができないはずの、みかん。自ら声をあげることはなくても、実の具合で己の心を表現し、人間の言葉に応えるのだろう。丁寧に扱われれば丁寧に育つし、ぞんざいに扱われればぞんざいな味になる。行きつく先は「食べられる」未来だとわかっていたとしても、人間が放つ言葉によって体調が変わるなんて、どうしても信じられない。

わたしたちにはどんなに頑張ってもみかんの声なんて聞こえないのに、みかんにはわたしたちの愛情が伝わる。一方通行の世界線に、なんだか切なくなってしまう。極端な話、みかんが人間に恋をしていたとしたら、人間が思わせぶりに毎日「好きだよ」と声をかけていたとしたら、それはとんでもない罪だ。いつか報われるかもしれない恋心をもちながら実を甘く熟しても、最期には食べられて終わる。そもそも、食べられることは本望なのだろうか、みんな喜んでいるんだろうか、食べられる運命に答え合わせなんてできないのがまた、もどかしい。わたしたちは、なんて無責任なのだろう。

手足があれば逃げ出すかもしれないすべての植物、手足があるのに力づくで殺される動物。短い命をわたしたちのためにささげてくれるすべての命。その声を聴くことなどできないけれど、相手にはこちらの感情が伝わることがあるのならば。
とびっきり、大切に、ていねいに、愛をもって接する以外の手段はないのだろう。例えばみかんにとって罪なヤツになってしまっても、嫌って貶して悲しませるよりは、いいのかもしれない。これも、人間のエゴなのかもしれない。

人間の世界には、「言葉」がある。心で感じたことを頭で変換し、口から音にして相手に伝えられる「コミュニケーション」がある。産声をあげたその時には、なにひとつ言葉がわからなくても、わたしたちは確実に言葉を取得していく。最初は家族、次に友達、そしてだんだんと世界を広げていき、出会う人々と交流することによって言葉を学んでいく。人に何かを伝えたいとき、そして人から何かを受け取りたいとき、言葉を介してやり取りをする。

同じ意味合いで言葉を使えているか、渡す言葉が正しく相手に伝わるか、一生埋まらない溝を抱えながらも、それでもちょっとでもわかりあいたくてコミュニケーションをとってきた。もしも言葉がなかったら、国や文明もここまで発達しなかっただろう。文学や音楽なんてものが生まれるはずがなく、恋や友情に涙することなんて、きっとなかった。人間の生存に、言葉は欠かせない。

今よりももっと険しい環境の中で生きながら、後世に言葉を使って歴史を伝えようとした先人がいたから、今もこうして生きていくことができるのだろう。地球上で、わたしたち人間が生物のヒエラルキーのトップにいるのも、言葉の存在が大きいのだと、わたしは確信している。人間に携えられた知恵によって、良くも悪くも地球は形をかえてきたのだ。

だというのに。

人間は、言葉で人間を殺すようになった。一昔前は、大きな動物たちから逃げて戦い、力を合わせて生きてきたはずなのに、地球のトップに君臨したとたんにこのザマだ。あらゆる動植物の命を制し、それだけでは満足できなくなってしまったわたしたちは、今度は身内で殺し合いをするようになった。言葉で人を傷つけ、時には殺せるようにもなった。客観的に見ると、なんかダサい。
人間は、賢くなりすぎてしまったのかもしれない。もっと、未熟なままでよかったのかもしれない。もっと無知だったら、もっと自然に素直だったら、失わなくて済んだ命だってあったのかもしれない。悲しいニュースを見るたびに、そんなたらればを考える。

せっかく言葉をつかえるのに、感情を知っているのに、それを相手に伝えられるのに。わざわざ相手に刃物を向けてしまうのはなぜなんだろう。言いたいことがあっても、愛を伝えたくても、人間の言葉がつかえなくてただ一方的に殺されるだけの動植物がこんなにいるのに。話したくても話せないみかんがいるのに。同志の人間で争って、いったい何がしたいというのだ。
そんなに殺し合ってしまうならば、いっそ言葉なんてとりあげてしまったほうが平和なのかもしれない。声も文字も、ぜんぶなくなれば争いなんてなくなるのかもしれない。みかん同士で戦争なんてしない。他の動物も、人間ほど醜くないはず。言葉がなくなれば、「表現」なんて戯言に溺れる必要もなくなるのだ。

それでも、言葉に縋って生きていくしかないわたしたちは、これからも間違い続けるのだろう。誰かが言葉の大切さを、怖さを、脆さを語ったって、どこかの誰かは今日も言葉で命を傷つけるのだろう。

そうすることでしか生きていけないのだ。

みかんは、みかんを殺さない。みかんを殺すのは、自然があるからこそ存在する害虫や病気、そして主にわたしたち人間だ。育てることを怠れば簡単に枯れてしまうし、人間同士が使うはずだった言葉で命をおとしめることさえできてしまうようにもなった。
人間界で生きる動植物は、生きるために徐々に言葉を学んできたのだろう。人間に順応するために、きっとわたしたちのしらないところで変化を遂げてきたんだ。わたしたちの知らないところで、なにかが少しずつ変わっているのかもしれない。

人間が殺し合いをしているうちに、ある日突然人間なんかよりも感情豊かで賢く、コミュニケーションをとれる動物が現れたらどうだろう。今、傷つけあうことに慣れて欲に盲目になっているわたしたちは、本当に生き残れるんだろうか。地球にとって、我々が生き残るべき存在であるかさえも、わたしにはわからない。

ただ、確信していることがひとつ。

結局、残酷なことに、この世界のあらゆる物事に意味をつけることができるのは、人間が操っている「言葉」でしかない。長年をかけて学んできた言葉が、わたしたちに意味をもたらしてくれる。どの動物にも、どの植物にも、それはなし得ないことなのだろう。
今、人間が生きていることに意味をつけるのも、言葉でしかない。それ以外の何物も、わたしたちを救ってはくれない。おそらくまだ数百年、言葉を操れる生き物が次に現れるその日まで、この地球に価値をもたらすのは、良くも悪くも人間しかありえないのだ。

いつか、人間の言葉で動植物が一喜一憂する日がくるのかもしれない。聞こえない動植物の声が聞こえた時、わたしたちはその声を、お互いにとって納得できる新しい「価値」として意味づけられるかもしれない。そして、殺してきた動物の心を知った時、生き方を変える必要がでてくるかもしれない。殺さなくてもいい命と共存できる世界が生まれるかもしれない。言葉を学び操ってきた人間が他の動物の共存できるようになれば、どこからか感じる地球の怒りも、収まる気がしてしまうのだ。
後輩が教えてくれたみかんの秘密で、そんなことまでを考えてしまう。

それでいいのだ。それが、正しい気もするのだ。
地球は人間のためのものではなく、生き物みんなのためのもの。命には、平等に重さがある。命にだけは、どんな存在にも価値をつけることは許されない。
いや、この想像こそ、わたしが人間であり、人間だからこその納得ありきの答えになってしまっている気もするが、なんかもう。どうしようもない。

わたしは人間だし、どうしようもないけれど。
ただ、いつか、いつか。

みかんの声が、聴きたい。
聴いてみたい。
それだけなのだ。

みかんが甘くなるのは、人間の愛情を受け取っているから。人間の愛を、感じ取れるから。あの甘さは、言葉の力によって生まれた愛情の賜物なのだ。まだ聞こえないみかんの声に耳を傾ける毎日で、それでも言葉によって愛情が伝えられるなら、伝える以外の選択肢はない。
とことん甘く、おいしく育ててあげること。そして、ちゃんと残さず食べてあげること。
食べられずに腐らせるよりいいだろうと、また納得したがるわたしは、しょせん人間。

でも、これから先の人生で食べるみかんが甘かったとき、わたしはそこに愛情を感じるのだろう。農家の人の愛を、それに応えたみかんの愛を、きっとその甘さから感じ取るのだろう。農家さん、みかんを甘くしてくれてありがとう。

話せるって、言葉があるって、それだけで尊いんだ。好きも嫌いも、おいしいもたのしいも、うれしいも悲しいも。会いたいも、愛してるも、伝えられるだけ恵まれているんだ。

まだどうせ、人間同士でしか話せないんだから。
どうせ言葉が話せるなら、愛を伝えようよ。
どうせ話せるなら、愛について語っちゃおうよ。
だって、そのほうがいくらでも楽しい気がするんだもの。
愛情を素直に受け取るみかんが甘くなるように、愛を伝えて愛を受けとめてみようよ。
せっかく、言葉が話せるんだから。

いつかみかんと話せる時が来たら、
愛について語ってみたい。
わがままボディのそのオレンジ色と、語りたいことがたくさんあるのだ。

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saku
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