見出し画像

音楽史年表記事編90.モーツァルトの歌劇「魔笛」(2)バッハの音楽

 オーストリー・ドイツはキリスト教の宗派としてはカトリックとプロテスタント(ルター派)に2分されます。カトリック地域のウィーンの教会ではハイドンやモーツァルトのミサ曲が演奏されても、プロテスタント・ルター派のバッハのカンタータやモテットが演奏されることはありません。ミサ曲は教会での祭事のために演奏されるもので、劇場などでの演奏は禁じられており、モーツァルトはミサ曲ハ短調をブルク劇場で演奏するために、ラテン語典礼文をイタリア語の台本に置換え、オラトリオに改編し上演しました。従って、カトリック圏ではセバスティアン・バッハの音楽は全く知られていなかったわけですが、長くプロテスタントのプロイセンと敵対してきた女帝マリア・テレジアが亡くなると、実権を握った皇帝ヨーゼフ2世はプロイセンと和議を結び、プロイセン文化を導入します。その一環としてオペラではドイツ語ジングシュピールの普及を図り、こうしてモーツァルトのドイツ語による歌劇「後宮からの誘拐」、歌劇「魔笛」が誕生します。また、モーツァルトは外交官としてプロイセンなどでヘンデルやバッハの楽譜の収集にあたってきたスヴィーテン男爵のもとでバッハの音楽を学び、ライプツィヒやベルリンを訪問し、直にセバスティアン・バッハの宗教音楽に触れることになります。
 1789年4月にモーツァルトはセバスティアン・バッハゆかりのライプツィヒの聖トーマス教会を訪問し、バッハのモテット「主に新しき歌を歌わん」BWV225を聞き、感激したモーツァルトはその楽譜に目を通し、ここにはまだ学ぶべきものがあると述べたとされます。モーツァルトは対位法の基礎をイタリア・ボローニャのマルティーニ師から学び、ここではウィーン楽派のフックスの教程書が用いられました。そして、スヴィーテン男爵を通して、またライプツッヒの聖トーマス教会でプロテスタント音楽の対位法の大家セバスティアン・バッハの宗教音楽に触れ、作曲家としての技量はさらに深まり、輝かしいモーツァルト最晩年の1791年の創作の集大成として歌劇「魔笛」が作曲されたといえるのではないでしょうか。
 モーツァルトは歌劇「魔笛」でセバスティアン・バッハの音楽様式を大胆に取り入れています。第2幕の夜の女王のアリアはバッハの音楽様式そのものです。歌詞を伴ったアリアはやがて木管楽器のように分散和音をかなで、コロラトゥーラの音域にまで達します。
 また、第2幕のフィナーレの2人の鎧を着た男のコラールでは北ドイツの讃美歌を用いています。また、同じく第2幕のパパゲーノのアリア「娘をひとり」はルネサンス期のドイツ民謡によるものとされます。

【音楽史年表より】
1782年4/10、モーツァルト(26)
4/10付の父レオポルト宛ての手紙によると、この頃モーツァルトは彼の良き理解者となるゴッドフリート・フォン・スヴィーテン男爵を通して、バッハを中心とするバロックのレパートリーに親しむようになった。毎週日曜日の12時にモーツァルトは現在ウィーンの国立図書館となっているスヴィーテン男爵のサロンへ通っていた。ここではヘンデルとバッハだけが演奏され、モーツァルトはバッハのフーガ等を持ち帰り筆写し、収集している。スヴィーテン男爵は1777年まで20年以上にわたって外交官を務め、外国赴任中にバッハやヘンデルをはじめとするバロック音楽の楽譜収集を行い、とりわけ最後の赴任地であったベルリンではバッハの息子エマヌエルや弟子たちを通じてバッハ作品の貴重な楽譜を収集した。(1)
4/20頃作曲、モーツァルト(26)、クラヴィーアのためのプレリュードとフーガ ハ長調K.394
毎週日曜日スヴィーテン男爵のサロン(宮廷図書館)でバッハやヘンデルを演奏していたモーツァルトは楽譜を自宅へ持って帰ることを許されていた。このプレリュードとフーガはバッハやヘンデルを気に入ったコンスタンツェのために作曲された作品。(1)
1788年8/10作曲、モーツァルト(32)、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551
モーツァルトは伽藍建築にも比される壮大なハ長調交響曲を完成する。この作品はJ・P・ザロモン以来「ジュピター」と呼ばれ親しまれてきた。堂々として輝かしく、堅固にして緻密なあたかも王者の風格にたとえられる形式と書法を備えたこの作品を表すのに、後世の呼称とはいえ、これほど適切な愛称はない。(2)
終楽章にはフーガが用いられているが対位法的様式は特筆に値する。フーガの技法を十分に駆使し、ホモフォニーとポリフォニーの両社の完全な融合をはかっているといわれる。(1)
1789年4/22、モーツァルト(33)
バッハゆかりの聖トーマス教会を訪れ、バッハの弟子であるトーマス・カントルのヨハン・フリードリヒ・ドーレスの前でオルガンを演奏し、この老音楽家をいたく喜ばせたと伝えられる。また、モーツァルトはトーマス学校の合唱隊が歌うJ・S・バッハのモテット「主に新しき歌を歌わん」BWV225(1727年作曲?)を聞き、感激したと言われる。ウィーン楽友協会資料室にはモーツァルトの書き込みが入ったこの曲の筆写総譜が保管されており、モーツァルトがライプツィヒで書き込みを行ったことを裏付けている。(3)
1791年9/30、モーツァルト(35)、歌劇「魔笛」K.620
ウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場においてモーツァルトの指揮で初演される。ベートーヴェンは「魔笛」の中にはモーツァルトのすべての面が見られるといって、この音楽を敬愛していた。序曲は大きなシンフォニックな編成を持ち、3本のトロンボーンの出る部分まで含まれている。それはこのオペラの調整、変ホ長調を確立すると同時に、これがありきたりなジングシュピールではないことを示してくれる。この変ホ長調の関係短調はハ短調であるが、それがこのオペラの中心的な部分に置かれるのは当然のことであろう。それはタミーノの火と水の試練に先立つ箇所であるが、ここでタミーノの両脇を固める黒い鎧を着た2人の男に、モーツァルトは北ドイツのコラール「神よ、天よりみそなわせ」を、厚い対位法的な伴奏に乗せて歌わせている。どのような点から見ても、このオペラは抜きんでた力作であり、その持つメッセージはベートーヴェンに伝わったが、彼の書いたドイツ・オペラもジングシュピールとは程遠いものであった。「魔笛」はモーツァルトの生涯の大ヒット作となった。彼はそれが野火のようにウィーンの人たちの間に広がるのを見届けてから死ぬことができた。(4)

【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
3.西川尚久著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
4.R・ランドン著、石井宏訳・モーツァルト(中央公論新社)

SEAラボラトリ

作曲家検索(約200名)、作曲家別作品検索(約6000曲)、音楽史年表検索(項目数約15000ステップ)より構成される音楽史年表データベースへリンクします。お好きな作曲家、作品、音楽史年表をご自由に検索ください。

音楽史年表記事編・目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?