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音楽史年表記事編57.モーツァルト、ベースレとアロイジア

 モーツァルトは母とともにマンハイム・パリ方面への求職の旅に出ますが、父レオポルトの故郷アウグスブルクでは叔父の家に投宿します。ここで、モーツァルトは従妹のベースレことアンナ・テークラと意気投合し、何事にも動じないベースレに対し、度を越した下品な表現をどんどんエスカレートさせて行きます。これはイタリアのベネツィア仕込みのカーニバルの無礼講の影響と思われます。あるいは、ローマ帝国の陽気なラテン文化がザルツブルク地方にも及んでいたものかもしれません。いずれにしても、このような表現は愛情表現のひとつであったと見られます。モーツァルトのマンハイム、パリでの就職活動は不首尾に終わり、落胆するモーツァルトはベースレにザルツブルクへの同行を求めますが、ベースレは2つ返事で同意しザルツブルクのモーツァルト家に2ヶ月あまり滞在しました。
 なお、ベースレは生涯独身を通したものの聖職者との間に子をなし、郵便局を営むその子の配偶者とともにバイロイトに移り、83歳という高齢で親しい家族に取り囲まれてその生涯を閉じたとされます。(1)

 モーツァルトはマンハイムを訪問し、イタリアでの音楽家としての実績をアピールし、選帝侯カール・テオドールに宮廷音楽家としての採用を求めます。モーツァルトはマンハイムで宮廷作曲家のカンナビヒや当時ヨーロッパ随一といわれたマンハイム宮廷楽団の演奏家と交流し、その評価を得ましたがマイハイム宮廷に採用されることはありませんでした。モーツァルトがマンハイムを訪れた数ヶ月前には恐らく皇帝ヨーゼフ2世が、パリへ向かう途中にマンハイムを訪れたものと見られます。このとき、ウィーン宮廷ではミュンヘンのバイエルン選帝侯を取りつぶし、マンハイムのプファルツ選帝侯にライン宮中伯選帝侯を統一する政治的な話が進んでおり、女帝マリア・テレジアとしてはライン宮中伯選帝侯の統一によってオーストリア継承戦争のけじめをつけようとしたものと思われます。モーツァルトは皇帝ヨーゼフ2世の慈悲に頼ろうとしたものの、結局はマリア・テレジアの冷酷な思いの犠牲になりますが、おそらくモーツァルト自身がこのことについて自覚していたのかもしれません。
 モーツァルトは政治的には激動する時期にマンハイムを訪問したわけですが、マンハイムの優れた演奏家との交流から多くの名曲を生み出します。特に優れたコロラトゥーラの持ち主のアロイジア・ウェーバーに心を奪われます。モーツァルトはアロイジアのためにアルカンドロのアリアK.294やアリア「テッサーリアの民よ」K.316などを作曲します。しかし、パリからマンハイムに戻った時には、すでにマンハイム宮廷はミュンヘンに移っており、しかもアロイジアとその父親はミュンヘン宮廷に雇われていました。これはモーツァルトがカンナビヒなどにアロイジアを売り込んだ結果であったものの、アロイジアはこれを自分たちがうまくやったからと勘違いしていたようです。アロイジアは更にウィーン宮廷歌手として雇われ、家族はウィーンに移り、アロイジアは役者のランゲと結婚します。しかし、この結婚は不幸なものに終わります。すでに最初の結婚で2人の子供をもうけていたランゲは、嫉妬によるケンカでアロイジアを苦しめ、だらしのない生活で経済的にも窮地に陥り、しかもアロイジアはウィーン宮廷歌手を解雇されると、各地を放浪し家族のために歌手として働きます。1791年にアロイジアはウィーン宮廷劇場で再度契約を果たしますが、もはや夫のもとに戻ることはなく、晩年はザルツブルクで裕福な枢密院顧問官の未亡人となっていた妹のコンスタンツェに扶助され、ザルツブルクで亡くなったとされます。(1)
 モーツァルトはアロイジアのために優れたコロラトゥーラのアリアを作曲しましたが、晩年の歌劇「魔笛」では、シカネーダー一座のバイオリニストであるホーファーの妻となったアロイジアの姉のヨゼファーが演じた夜の女王のための2曲のコロラトゥーラのアリアを残しています。

【音楽史年表より】
1778年2/24作曲、モーツァルト(22)、管弦楽伴奏、ソプラノのためのレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、わたしはそれを告白する-わしは知らぬ、この優しい愛情がどこからやってくるのか」K.294
メタスタージョの台本による。マンハイムで知り合ったアロイジア・ウェーバーのために作曲される。アルカンドロのアリアで、当時モーツァルトの心の中に吹き荒れていた感情のあらしは、深い感動を与えるような表現を見いだし、アロイジアの歌いぶりは大喝采を博したとされる。(1)
3/12初演、モーツァルト(22)、管弦楽伴奏、ソプラノのためのレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、わたしはそれを告白する-わしは知らぬ、この優しい愛情がどこからやってくるのか」K.294
マンハイムのカンナビヒ邸でのモーツァルトのお別れ音楽会でアロイジア・ウェーバーによって初演される。また、この演奏会ではモーツァルトの3台のピアノのための協奏曲第7番ヘ長調「ロードロン協奏曲」K.242がカンナビヒの娘ローザ・カンナビヒ、アロイジア・ウェーバー、テレーゼ・ピエロンのクラヴィーアによって演奏された。(2)
1779年1/8作曲、モーツァルト(22)、管弦楽伴奏、ソプラノのためのレチタティーヴォとアリア(シェーナ)「テッサーリアの民よ-不滅の神々よ、私は求めはしない」K.316
ラニエーリ・デ・カルザビージの「アルチェステ」第1幕第2場の台本による。1778年パリで書き始め、ミュンヘンで完成する。グルックは同じ台本による改革オペラ「アルチェステ」を上演し、モーツァルト父子もこの作品に接している。アロイジア・ウェーバーの若い有能な歌手の能力を十分に引き出すことをねらいとして作曲される。(2)

【参考文献】
1.ベルモンテ著、海老沢敏・栗原雪代共訳・モーツァルトと女性(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)

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