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音楽史・記事編140.百年戦争、ブルゴーニュ楽派と音楽史(ルネサンス

 カール大帝によってヨーロッパは西ローマ帝国以来の再統一を果たし、9世紀~10世紀の時期にはグレゴリオ聖歌が編纂され、カール大帝によってヨーロッパ北部に大聖堂が建設され聖堂には巨大なパイプオルガンが設置され、パイプオルガンの伴奏で讃歌、聖歌が歌われたと見られ、記譜の必要性からネウマ譜が用いられ、後には徐々に現代の五線譜に進化して行ったと見られます。また、この時期、イタリアではギリシャ文化・文芸の復興運動であるルネサンスが興り、音楽史においてもブルゴーニュに巨匠ギョーム・デュファイが登場し、中世音楽はルネサンス音楽に変貌します。本編ではルネサンス初期のブルゴーニュ楽派における和声法、調律法の変遷などに関する音楽史について見て行きます。

〇ブルゴーニュ楽派・・中世の音楽からルネサンス音楽へ
 イギリスとフランスが百年戦争を戦っている中、イギリスのジョン・ダンスタブルは3度と6度の和声法をブルゴーニュに伝え、ギリシャのピタゴラス起源の5度の和声を中心とする音楽からルネサンス以降の和声の中心となる美しく豊かに響く3度、6度の和声法による音楽が巨匠デユファイによって創作されていったものと見られます。調律史としては中世までのギリシャ音律では純正ではなかった3度和声は、ルネサンス期からは純正な3度和声が用いられるようになり、3度5度の純正音律の調律が一般化して行き、15世紀には純正な3度の和声が可能でかつ転調にも柔軟性を持つ中全音律による調律が使われるようになり、また音楽の調性については、グレゴリオ聖歌で用いられたネウマ譜による教会旋法が徐々に、記譜法として進化が進み、やがて16世紀から17世紀のバロック期の頃には現代の長調、短調の24の調性が一般化されていったようです。このようにルネサンス期初期は、ブルゴーニュ楽派の作曲家によって、純正律、中全音律などの和声や調律法、複数の声部を重ねるポリフォニー様式、教会旋法などの調性様式、記譜法など音楽の基本的様式が確立されていった時代と見ることができます。
 ルネサンス音楽の一番の特徴は最も美しいとされた純正な3度の和声のほか4度、5度、6度の豊かに響く多様な和声が用いられるようになったことと思われ、これはモノフォニー音楽から複数の声部を重ねるポリフォニー音楽へと変革していったことを伺わせます。これらのルネサンス音楽を担っていったのは巨匠ギョーム・デュファイやイギリスから3度及び6度の和声法を伝えたジョン・ダンスタブルであったとされます。デュファイは1397年当時のブラバント公領の現在のベルギーに生まれ、フランスのカンブレの聖歌隊に入り、1418年には副助祭となり、その後イタリアへ渡り作曲を始めたとされ、ボローニャで司祭となり、ローマ教皇庁を経てブルゴーニュ公国のサヴォワに移りブルゴーニュ公に仕えたとされます。デュファイのミサ曲「アヴェ・レジナ・チェロルム(めでたし天后)」は最高傑作とされ、ミサ曲「武装した男(いくさ人)」は世俗シャンソンを定旋律に使用した最初のミサ曲の例とされます。
 1390年ごろにイギリスに生まれたジョン・ダンスタブルは百年戦争の休戦時にブルゴーニュにわたり、イギリスで生まれた3度、6度の和声様式を伝えたとされます。ダンスタブルの和声様式はブルゴーニュ楽派とそれに続くフランドル楽派のポリフォニー様式に大きな影響を与え、ルネサンスの美しい純正な3度の和声はバロック後期にバッハの平均律が現れるまで、さらに平均律が現れてもなお音楽の中心的な和声の中核となって行きました。

〇百年戦争と音楽史
 1337年のフランス王家の血筋の断絶に端を発したイギリスとフランスの戦争は長く続き百年戦争と呼ばれます。イギリスはフランスのフランドル地方の羊毛で産業を行っていたこともあり、フランス王家の血筋の断絶を機にフランスに攻め込み泥沼の百年戦争が始まります。イギリス王家はフランス王家とは血縁があり、イギリスは産業において関係の深いフランスの王家を引き継ぐ権利を主張したようです。
 1879年イタリア、フランス、スイスを旅行中のチャイコフスキーは百年戦争でフランスを救った少女ジャンヌ・ダルクを扱った意欲作であるロシア語の歌劇「オルレアンの少女」を作曲しています。・・・イギリス軍に敗退したフランス王シャルルはロワールに退いた。しかし、フランスの少女ジャンヌ・ダルク(劇中ではイオアーンナ)は指揮をとり奇跡的にイギリス軍に勝利しフランスの救済者となる。フランス王シャルルはジャンヌ・ダルクを信頼し軍隊の指揮官に任命する。ジャンヌはランス郊外でイギリス軍の指揮官リオネリと戦い、リオネリに覆いかぶさり剣で突き刺そうとするものの、リオネリに強い愛情を感じ崩れ落ちる。・・・ランス大聖堂ではフランス王シャルル7世の戴冠式が執り行われ、国王はジャンヌ・ダルクを救済者として迎える。しかし、ジャンヌの父ティボーは敵の指揮官を救ったジャンヌに対し魔術を使ったと非難する。・・・ルーアンではイギリス軍の反撃によりジャンヌの愛するリオネリは殺害され、そしてイギリス軍に捕らえられたジャンヌは火刑に処せられ、19歳の短い生涯を閉じる・・・(1)

〇チェコのフス戦争・・宗教改革の先駆け
 古い歴史を持つボヘミアは古代にはケルト人が居住し、ドナウ河を隔てて強大なローマ帝国と対峙し、北方のゲルマン民族の移動に伴いゲルマン人が、6世紀までには東のスラヴ人が定住、混血し、現在のチェコ人が形成されたとされます。この時期のボヘミアは神聖ローマ帝国のオーストリア大公国の一部であり、チェコ人はもともとはローマ帝国と敵対していたわけで民族としての誇りというものがあったのかもしれません。おそらく、たび重なる十字軍の派遣で財政的にも疲弊し、ローマ・カトリック教会の教皇、皇帝選挙における腐敗ともいえる状況に嫌気を感じたプラハのカレル大学の学長ヤン・フスはローマ・カトリック教会に反旗を翻したことにより破門され、火刑に処せられます。これに対し残されたチェコのフス派の人々はカトリック教会と戦い、これらはスメタナの交響詩「わが祖国」で描かれます。また、ドボルザークも序曲「フス教徒」を作曲しています。チェコ改革派の人たちの神聖ローマ軍との戦いはドイツのルターの宗教改革の先駆けとなり、宗教戦争である30年戦争でドイツはヨーロッパ史上最悪の戦いの場となって行きます。

〇大航海時代の始まり
 大航海と音楽史は関係がないように見られますが、大航海によって世界帝国が出現し音楽史にも影響がありました。1450年以降のルネサンス後期には、アメリカ大陸、アジアに植民地を持ったスペインはハプスブルク家に統合され、世界帝国の皇帝となった神聖ローマ帝国皇帝カール5世はその首都が置かれたフランドルに君臨し、フランドルは世界の政治経済の中心となり、音楽でも経済的に豊かなフランドルにおいてフランドル楽派と呼ばれる多くの作曲家を生み出して行きます。
1271年から95年 イタリアのマルコ・ポーロは陸路で中東、中国方面を回り、東方見聞録を著す。
1492年 ジェノヴァのコロンブスが西インド諸島に達する。
1492年 イベリア半島のイスラム王朝が滅び、カトリックのスペイン王国が復活する。
1497年 ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマが喜望岬を発見し、インド航路を拓く。
1516年 ハプスブルク家の後の皇帝カール5世がスペイン王となる。
1519年から22年 スペインのマゼランが世界一周を果たす。
 マルコ・ポーロの東方見聞録により東方の異国への関心が高まっていたヨーロッパでは、既に北欧のバイキングによって北アメリカ方面の遠洋航海が行われていたとされ、バイキングの航海術はイギリス、フランス、ポルトガル、スペインに広がっていったものと見られます。1492年イタリア人のコロンブスはスペイン王家の支援を得て、大西洋を西に航海し西インド諸島に到達、これ以降スペインはアメリカ大陸に広大な植民地を得て行きます。一方、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマは喜望峰を回るインド航路を発見し、インド洋周辺に植民地を広げました。
 一方、神聖ローマ帝国、ハプスブルク家は婚姻によってフランドルを手に入れ、さらに相互婚姻政策によりハンガリー、スペインを支配下に置きます。さらに、フランス統治下にあったイタリアを占領し、ハプスブルク家は現在のイタリア、オーストリア、ドイツ、フランドル、ハンガリー、チェコ、スペイン、ポルトガルの他、アメリカ大陸やアジアの世界のスペイン、ポルトガルの植民地を手に入れ太陽の沈まぬ世界帝国となり、フランドルは繁栄しイタリアのルネサンスに対し北のルネサンスと呼ばれ多くの音楽家、芸術家を輩出しました。

【音楽史年表より】
1420年代作曲、ダンスタブル(30~)、器楽と独唱、3声部のためのシャンソン「おお、美わしのばら」
ジョン・ダンスタブルは中世からルネサンス期の分かれ目の年代に活躍する、イギリス人であり、長期にわたってフランスのブルゴーニュに滞在し、デュファイやバンショアとも交友関係にあったと推察される。(2)
1420年代後半、デュファイ(28~)、器楽と3声部のためのモテット「救いの主のいとしい御母」
ギョーム・デュファイはブルゴーニュ楽派に属する初期ルネサンス最大の作曲家であり、北フランスのカンブレイまたはその近郊の出身、ローマ教皇礼拝堂やイタリアとフランスの中間に位置するサヴォア公国等に仕えるが、1439年に故郷に戻る。(2)
1436年3/25初演、デュファイ(38)、器楽と4声部のためのモテット「バラの花は新しく」
フィレンツェの大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレ(花の聖母マリア大聖堂)の献堂式において教皇エウゲニウス4世の出席のもと初演される。(2)
1450年代作曲、デュファイ(53~)、無伴奏4声部のためのミサ曲「いくさ人」
おそらく世俗シャンソンを定旋律に使用したおそらく最初の例である。(2)(3)
1464年以降作曲、デュファイ(62~)、無伴奏4声部のためのミサ曲「アヴェ・レジナ・チェロルム」
このミサ曲は循環形式で書かれており、デュファイの全作品の最高峰に位置する。ミサ通常文にないものを形式から省いているのは、おそらくオケゲムをはじめとする若い世代の作曲家の影響を受けたからと見られる。(2)(3)
1879年8月作曲、チャイコフスキー(39)、歌劇「オルレアンの乙女」Op.24
シラーの原作による。フィレンツェ滞在中の1878年12月に作曲を開始し、帰国後の79年8月に完成する。フランスを救ったジャンヌ・ダルクは英国指揮官を愛し、悲劇的な死を迎える。(4)
1881年2/25(旧暦2/13)初演、チャイコフスキー(40)、歌劇「オルレアンの少女」Op.24
サンクト・ペテルブルクのマリインスキー劇場で初演される。(1)
作品は初演時の指揮者ナプラヴニクに捧げられる。(4)
1882年11/5全曲初演、スメタナ(58)、交響詩「わが祖国」
全6曲を通しての初演がプラハで行われる。この連作交響詩は1874年10月にまったく耳が聞こえなくなったスメタナによって、1879年までに作曲される。この「わが祖国」全6曲はスメタナの命日に開催されるプラハの春と呼ばれる音楽祭の初日の5/12に毎年チェコ・フィルハーモニー管弦楽団によって演奏されている。(2)
1883年9/9作曲、ドボルザーク(42)、管弦楽のための劇的序曲「フス教徒」Op.67、B132
1883年8/9?に着手し9/9に完成する。11/18プラハで初演される。(5)

【参考文献】
1.新グローヴ・オペラ事典(白水社)
2.最新名曲解説全集(音楽之友社)
3.ブイイ他著、岡田朋子訳、西洋音楽史年表(白水社)
4.伊藤恵子著、作曲家・人と作品シリーズ チャイコフスキー(音楽之友社)
5.内藤久子著、作曲家・人と作品シリーズ ドヴォルジャーク(音楽之友社)

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