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音楽史・記事編149.マリア・テレジアの外交革命と古典派誕生の音楽史

 前編ではウィーン古典派誕生の背景として前期古典派における主にソナタ形式の成立について見てきました。本編では古典派誕生の政治的背景について見て行きます。ハプスブルク家はオーストリア継承戦争を戦い、続いてマリア・テレジアは長く対立してきたフランスとの同盟を行うという外交革命を果たし、これらによってオーストリア・ハプスブルク家はヨーロッパにおける威信を回復し、音楽においてもヨーロッパの中心的都市として発展し、ヨーゼフ・ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという音楽史における輝かしい作曲家が現れ、華やかな音楽文化が開花します。

〇30年戦争以降のハプスブルク家の系図
 30年戦争以降、オーストリア・ハプスブルク家ではマリア・テレジアの祖父の皇帝レオポルト1世、父の皇帝カール6世が皇帝位を継承します。しかし、オスマントルコとの戦争、スペイン継承戦争と戦乱が続き、さらにハプスブルク家の男系が途絶えたことからプロイセンが反旗を翻し、これにハプスブルク家の親戚のバイエルン選帝侯家、ザクセン選帝侯家が加担して行きます。30年戦争以降の皇帝レオポルト1世からマリア・テレジアに至るハプスブルク家の状況を系図で見て行きます。

 30年戦争を終結させたフェルディナンド3世の後継となった皇帝レオポルト1世は束の間の平和な時期を過ごしたようです。26歳になったレオポルト1世は1666年、スペインのフェリペ4世の公女を皇后に迎え、ウィーンでは新たに王宮に隣接してブルク劇場を建設しイタリアのチェスティによる歌劇「黄金の林檎」を祝賀として上演します。ギリシャ神話を題材としたこのオペラは上演に8時間から9時間を要し、岡田暁生著・オペラの運命(1)によれば・・・世界一の美女の女神に与えられる「黄金の林檎」がかろうじて全体の物語に細い糸を通しているもののはっきりとした筋はなく、冥界、神々の宴、風の洞窟、アテネ兵士の陣営、魔物が住む沼地、アテネの神殿などスペクタクルな場面が次々現れる・・・また、このオペラの上演のために10万グルデン、1グルデン=1万円として約10億円の経費がかかったとされ、また皇帝は作曲も行ったことからバロック大帝と呼ばれていたとされます。しかし、1683年にはオスマントルコの襲撃によってウィーンは包囲され、さらに1701年にはスペイン王家の男系断絶によるスペイン継承戦争が勃発する中、長男には北ドイツのブラウンシュヴァイク・リューネブルク家の公女を次男には同じく北ドイツのブラウンシュヴァイク・ヴォルフェンビュッテル家の公女を迎えています。両家ともバイエルン、ザクセンにゆかりがあり、皇帝レオポルト1世としてはプロテスタントの北ドイツ諸侯と融和を図るためか、あるいは関係を強めるフランスとプロイセンの間に楔を打ち込みたいとの思いがあったのかもしれません。

〇1683年、オスマントルコの第2次ウィーン包囲
 1683年7月、30年戦争でオーストリアが弱体化したとみたオスマントルコはハンガリーからオーストリアに侵攻し15万という兵力で150年ぶりにウィーンを完全に包囲します。皇帝レオポルト1世はウィーン包囲前にウィーン脱出に成功し、ドナウ川上流のパッサウに逃れ、神聖同盟の諸国に救援を求めたとされ、堅牢なウィーンの城郭は1万5千の兵力で持ちこたえ、9月にはバイエルン軍、ザクセン軍に加えロシア軍、ポーランド軍、ベネツィア軍がウィーンに到着し、オスマントルコ軍を敗退させ、その後16年に及ぶ神聖同盟軍とオスマントルコとの戦争が続いたとされます。

〇スペイン継承戦争(1701年―1714年)
 1700年スペインのカルロス2世が死去するとスペイン王家の男系が途絶え、後継争いとしてフランス王家とオーストリア・ハプスブルク家が争い、スペイン継承戦争が始まります。敵対する両家にあって、フランス王ルイ14世の母アンヌはスペイン国王フェリペ3世の公女であり、一方のオーストリア・ハプスブルク家の皇帝レオポルト1世の母マリア・アナもスペインのフェリペ3世の公女で、母親同士が姉妹という従兄関係であり、しかもフランスのルイ14世が後継に推した孫のフィリップは亡くなったカルロス3世の甥の子にあたり、またハプスブルク家の皇帝レオポルト1世が後継に推した次男のカールはカルロス3世の甥にあたるという複雑な血縁関係にありました。スペイン継承戦争のさなかオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世が亡くなり、皇帝位は長男のヨーゼフ1世に継承されますが、ヨーゼフ1世も1711年に亡くなり、結局は後継者候補のカールが皇帝カール6世として皇帝として戴冠します。この時カール6世は26歳で、ポルトガル、スペイン方面に出征し戦うものの徐々に劣勢に追い込まれますが、もともとスペイン王国は同じハプスブルク家としてカール5世が治めており、日の沈まぬ世界帝国としてヨーロッパに君臨していた時期もあり、本家のオーストリア・ハプスブルク家の皇帝カール6世がスペイン王となるという大義名分があり、一方のフランスもその建国の起源はスペインとフランスを統治したローマ帝国の西ゴート王国にさかのぼることができスペインを統治することは当然という、お互いに大義と大義のぶつかり合いの戦争となったように見られます。結局は1713年にユトレヒト条約が結ばれ、スペイン王家はフランスの王子フィリップがフェリペ5世として継承することが認められ、オーストリア・ハプスブルク家にはその代償としてネーデルランド、ナポリ王国、ミラノ公国、シチリア王国がスペインから割譲されることになったとされます。

〇マリア・テレジアとロートリンゲン公フランツ・シュテファンの婚礼
 オーストリア・ハプスブルク家の後の皇帝カールは16歳から29歳までをスペイン継承戦争の時期に過ごし、26歳に皇帝に即位すると皇帝軍を率いてスペインで戦っています。カールは1708年、23歳の時にスペイン継承戦争のさなかスペインのバルセロナで、ハノーファー近郊のブラウンシュヴァイク公国の公女エリーザベト・クリスティーネを妃に迎えます。しかし、後継ぎには恵まれず継承戦争が終わった1716年になってようやく男児に恵まれるものの1歳に満たず夭折し、1717年には大公女マリア・テレジアが誕生します。さらにマリア・アンナ、マリア・アマーリアと2人の大公女がうまれ、しかし後継ぎの男児が生まれることはなく、皇帝カール6世は長女マリア・テレジアに家領の相続させることを定め、周辺諸国にその承認を求めています。
 1736年19歳のマリア・テレジアはロートリンゲン公フランツ・シュテファンとウィーンのアウグスティーナ教会で婚礼を挙げます。幼いマリア・テレジアはウィーンに留学した9歳年上のロートリンゲン公のフランツと出会い、当時の王族の結婚では珍しく奇跡にも近いとされる恋愛による結婚を果たします。しかし、フランスの血筋でもありハプスブルクの血筋でもあるフランツとの結婚には隣国フランスへの配慮からロートリンゲン(フランスではロレーヌ)の領地をフランスに割譲するという代償があり、その代わりにフランツ・シュテファンにはメディチ家の血筋が途絶えたイタリア・フィレンツェのトスカーナ公の地位が与えられます。
 一方の亡くなったカール6世の兄のヨーゼフ1世にも跡継ぎとなる男子は生まれず、皇帝ヨーゼフ1世の死後、ヨーゼフ1世の皇后アマリーア・ヴィルヘルミーネは2人の娘をバイエルン選帝侯とザクセン選帝侯に嫁がせています。もともと兄のヨーゼフがハプスブルク家を継ぎ、弟のカールはスペインを継ぐという大義があったため、皇太后アマーリア・ヴィルヘルミーネには自身の娘の婿をハプスブルク家の皇帝にしたいという思いがあったのか、あるいは皇太后の背後にプロイセンのフリードリヒ2世がいた可能性があります。

〇オーストリア継承戦争(1740年―1748年)
 1740年10月、マリア・テレジアの父カール6世が死去し、若きマリア・テレジアと夫のフランツ・シュテファンには厳しい状況に置かれます。カール6世の死後、プロイセンのフリードリヒ2世はオーストリア領のシレジアに侵攻し、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯は共にプロイセン側につき、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンは四面楚歌の状況に置かれます。そして、バイエルン選帝侯、ザクセン選帝侯の地位を利用しフランクフルトで選帝侯会議を開催し、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒトが神聖ロー帝国皇帝カール7世として戴冠するに及びます。しかし、マリア・テレジアは自らハンガリー王となり、ハンガリー議会を説得しハンガリーの援軍を得てバイエルンに攻め込みバイエルンを占領します。バイエルン選帝侯・皇帝カール7世はフランクフルトに逃がれ、そこで病没したとされ、これによりバイエルンとザクセンはオーストリア側に復帰し、次の皇帝選挙ではマリア・テレジアの夫のフランツ・シュテファンが選ばれ新たな皇帝フランツ1世が誕生することとなり、マリア・テレジアはオーストリア・ハプスブルク家の復興を成し遂げたことから女帝と呼ばれるようになります。

〇女帝マリア・テレジアの外交革命
 オーストリア継承戦争で皇帝位の奪還に成功した女帝マリア・テレジアはオーストリア・ハプスブルク家を盤石にするため、長く敵対してきたフランスと同盟すことに舵を切りロシアとともに三国同盟を結び、プロイセン包囲網を構築、ヨーロッパにおける威信を取り戻します。これによってウィーンでは音楽文化が華開きます。もし、バイエルン選帝侯家が簒奪した神聖ローマ皇帝位を後まで継承して行けば、ウィーン・ハプスブルク家はおそらく衰退し、後のウィーンの音楽文化は異なったものになっていたと考えられ、ウィーン古典派の誕生には政治的要因が大きくかかわったと見られます。

【音楽史年表より】
1666年12/12(実際の初演は1668年に延期された)、チェスティ(43)、歌劇「黄金のりんご」
ウィーンで神聖ローマ帝国レオポルト1世とスペイン王フェリペ4世公女マルガリータ・テレーザの結婚を祝して上演される。レオポルト1世はこのオペラ上演のためにホーフブルクの隣に新しく劇場を築かせた。オペラ上演には9時間を要し、上演経費は10万グルデン(約10億円)を要した。(2)
1731年9/14、セバスティアン・バッハ(46)
バッハはハッセのオペラ「クレオフィーデ」の初演に立ち会うため、ドレスデンを訪問し、9/14には聖ソフィア教会のジルバーマン・オルガンで演奏会を行う。(3)(4)
1733年7/27献呈、セバスティアン・バッハ(48)、ロ短調ミサ曲BWV232
フリードリヒ・アウグスト2世にキリエとグロリアのパート譜を献呈する。バッハは1733年7/27ポーランドの王になるためにルター派からカトリックに改宗したドレスデンのザクセン選帝侯アウグスト強王(1733年2/1逝去)の皇太子であるフリードリヒ・アウグスト2世に、宮廷作曲家の称号を請願します。このときに請願書とともに提出されたのが、このいわゆる「ロ短調ミサ曲」のキリエとグローリアのパート譜でした。(5)

【参考文献】
1.岡田暁生著、オペラの運命(中央公論新社)
2.最新名曲解説全集(音楽之友社)
3.樋口隆一著、バッハ(新潮社)
4.バッハ事典(東京書籍)
5.淡野弓子著、バッハの秘密(平凡社)

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