音楽史・記事編144.ルネサンスからバロックへの音楽史と30年戦争
フランドルのポリフォニー音楽はイタリアに伝わり、カトリック教会でもトレント(ラテン語ではトリエント)の公会議での議論の末、ポリフォニー音楽が教会音楽として認められます。一方、ルターによるプロテスタント勢力と神聖ローマ帝国のハプスブルク家との争いは凄惨な30年戦争を引き起こすなどヨーロッパは混乱に陥る中、イタリアでは世相を反映するかのように破天荒で劇的なバロック音楽が始まります。
〇宗教音楽の父・パレストリーナ
スペイン王カルロス1世となっていたハプスブルク家の大公カールは未曽有の金権選挙で、フランス王フランソワ1世を破り神聖ローマ帝国皇帝カール5世を戴冠します。これと同時期マルティン・ルターはローマ・カトリック教会の腐敗を糾弾しプロテスタント・ルター派を興し、南ドイツでは農民と領主の宗教的戦いである農民戦争が勃発し、また領主間でもルター派とカトリック派に分かれシュヴァーベン戦争が起り、戦乱が広がります。一方、南ドイツでの宗教的対立をよそにフランドルでは世界帝国の植民地による富を集め経済的に豊かになり、音楽分野では純正音律によるポリフォニーが成熟し、多くの作曲家が生まれフランス、イタリア、スペインなどにその多声様式を伝え、特にイタリア・ローマではパレストリーナやカリッシミなどのルネサンスを代表する作曲家が現れ、ローマ楽派を形成します。当時は教会においてもポリフォニー様式の世俗的な歌曲が聖歌として歌われるようになっていたようで、1545年からイタリア北部のトレントで18年間にわたって開催されたトレント公会議でプロテスタントに対するカトリックの教義の再確認と共に、教会で歌われるミサ曲のあり方が協議されたとされます。ローマのパレストリーナは、ポリフォニー音楽が教会音楽から排除されようとしたとき、教皇マルチェルスのミサ曲を作曲し教会音楽として認められ、教会音楽におけるポリフォニーを守り宗教音楽の父と呼ばれるようになったともされますが、パレストリーナが教皇マルチェルスのミサ曲を作曲したのはトレントの公会議の終了後であることから無関係とする説もあるものの、生涯に約100曲のミサ曲、約600曲のモテットなどのポリフォニー音楽を作曲し、パレストリーナは音楽史における救世主となったとの意味合いはあるように思われます。1570年にはローマ教皇ピウス5世によってローマ典礼が定められ、これ以降カトリックにおけるミサ曲はキリエ、グロリア、クレド、アニュス・デイなどのラテン語の典礼に基づいて作曲されるようになり、多くのミサ曲はトレント公会議の形式(簡易なポリフォニー形式)にかなうように作曲されて行きます。(3)
〇イタリアでバロック音楽が始まる・・・ルネサンス音楽からバロックへ
ルネサンスからバロックに至るイタリアの巨匠モンテヴェルディは生涯にわたり全8巻のマドリガーレ集を出版し、1603年の第4巻ではルネサンス様式の第1作法から劇的なバロック様式である第2作法に作曲様式を変化させています。ルネサンス後期には神聖ローマ帝国皇帝はすでにローマ教皇による戴冠は行われず、名目的ではあったもののドイツ王とイタリア王のうちイタリア王を放棄しており、ドイツ南部の宗教的抗争に続きイタリア北部のロンバルディアやトスカーナではフランスと神聖ローマ軍が領有を争うイタリア戦争が起こるなど、政治的混乱による世相を反映するかのように、イタリアでは美しい純正和声のルネサンス音楽に代わり、不協和音や半音階を取り入れた劇的で破天荒な様式のバロック音楽が生まれます。フィレンツェのルネサンスの潮流により音楽でもギリシャ様式の復興が試みられ、レチタティーヴォとアリアが歌われるようになり、1607年にはモンテヴェルディによって器楽曲であるシンフォニア、レチタティーヴォ、マドリガーレ風書法による合唱、舞踏を伴った合唱など多様な構成により劇的な盛り上がりを見せる、音楽史における初めての近代オペラ「オルフェオ」がマントヴァで上演され、バロック期においてオペラは音楽史の本流となります。ベネツィア、ローマ、ナポリなどでは巨大なオペラ劇場がいくつも建設され数多くのオペラが上演され全盛期を迎えます。さらに、イタリアではオラトリオ、器楽によるソナタ、声楽によるカンタータ、器楽協奏曲様式のコンチェルトなどあらゆる音楽様式が現れ、イタリアは音楽の母国と呼ばれるようになります。(1)
〇ドイツでは30年戦争始まる
ルターの宗教改革後、神聖ローマ帝国内の南ドイツではカトリック派とプロテスタント派の間でドイツ農民戦争、シュマルガルデン戦争などの対立が起こり、さらにボヘミアではプロテスタントのプファルツ選帝侯がボヘミア王を戴冠したことをきっかけに、オーストリア・ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝フェルディナンド2世は1618年帝国内の宗教的統一を図ることを目的にボヘミアに侵攻し、30年に及ぶ宗教戦争が勃発します。一方、フランドルを支配するスペイン・ハプスブルク家はプロテスタント・カルバン派のオランダの独立戦争である80年戦争を戦っており、オーストリアとスペインの両ハプスブルク家がプロテスタントのザクセン、プロイセン、オランダと凄惨な30年戦争を戦うことになります。さらに北欧のデンマーク、スウェーデンも参戦し、一時はカトリックに傾いたデンマークに対しスウェーデンはデンマークと対峙し、ハプスブルク家と対立していたフランスは、カトリックの国でありながらプロテスタントに加担し、結局はハプスブルク家を敗北に追い込みました。30年戦争では800万人の人命が失われたといわれ、世界大戦以前では最悪の戦争となり戦場となったドイツは荒廃します。1648年ドイツのミュンスターで講和が行われヨーロッパ中の国々から特使が集まり、ヴェストファーレン条約が締結され、敗北した神聖ローマ帝国は帝国内の統率権を失い、ドイツの300諸侯はそれぞれ独立した主権を持つという帝国としての体制は崩壊し、宗教についてはそれぞれの国の領主の宗派をその国の宗教とすると定められます。神聖ローマ帝国はオスマン・トルコに対するヨーロッパの防波堤の役割を担わされ、かろうじて皇帝位のみは認められます。また、スペイン・ハプスブルク家と戦ったオランダは独立を勝ち取り、スイスも独立を果たします。(3)
〇イギリス、シェイクスピアと清教徒革命
一方のイギリスではイタリアでバロック音楽が始まる頃、文豪シェイクスピアが現れ多くの名作を生み出し、音楽では後にヴェルディなどによってオペラ化されて行きます。さらに、ドイツの30年戦争のさなか、ピューリタン議会派と国王派の対立が深まり、1649年国王チャールズ1世が処刑され共和制が成立します。しかし、クロムウェルの改革は議会と軍との間の不和を生み、クロムウェルの死後1660年チャールズ2世がロンドンに帰還し王政に戻ります。
このようにヨーロッパでは戦乱に次ぐ戦乱が続く中、30年戦争で荒廃するドイツで音楽史における2人の巨匠が現れます。1685年ドイツのハレでは後にイギリスで活躍したゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルが誕生し、同じくドイツのアイゼナッハでは今日あらゆる音楽で使用されている平均律による作曲が可能であることを実証したヨハン・セバスティアン・バッハがあいついで誕生します。
【音楽史年表より】
1517年、マルティン・ルターの宗教改革が始まる。
1519年、カール5世神聖ローマ帝国の皇帝を戴冠し、フランドル、ドイツ、イタリア、スペインと世界のスペイン・ポルトガルの植民地を支配し、世界帝国の皇帝となる。
1524年、南ドイツでドイツ農民戦争起る。
(1545年3/15)~1563年12/4、トリエント(イタリア語ではトレント)公会議でミサ曲のポリフォニーが認められる。
1545年3/15に教皇パウルス3世によって、トリエントで召集された公会議は、途中の中断もあり1563年12/4教皇ピウス4世のもとに終了する。トリエント公会議では、プロテスタントの宗教改革に対するカトリック教会の姿勢を明確にし、カトリック教会の刷新と自己改革の原動力となった。また、宗教音楽に世俗的要素を多用すしすぎることを恐れた教会は、それまでばらばらだったミサの様式を、簡素なポリフォニー様式に統一することが決議された。(1)
1546年、南ドイツのシュマルガルテン戦争
1556年、カール5世退位し、ハプスブルク家はオーストリアとスペインに分裂する。
1567年作曲、パレストリーナ(42)、教皇マルチェルスのミサ曲
初版がローマで出版され、スペインの国王フェリペ2世に捧げられる。ローマ近郊のパレストリーナに生まれたジョヴァンニ・ダ・パレストリーナは100曲以上のミサ曲を作曲し、その多くは4声の作品である。パレストリーナはルネサンス音楽の代表的作曲家であり、宗教音楽の父と呼ばれる。あらゆる作曲技法を駆使し、フランドル楽派が好んだ定旋律ミサや自由な主題によるものも見られる。(1)
トレント(トリエント)の宗教会議であらゆる多声音楽が教会から排除されようとしたとき、パレストリーナがこの曲を作曲して、ポリフォニー音楽が宗教性と両立しうることを証明して、教会音楽の危機を救ったという伝説があるが、この曲が宗教会議と無関係という説もある。(2)
1570年7/14、ローマ・ミサ典書が交付される。
ローマ教皇ピウス5世、大勅令「クオー・プリームム・テンポレ」を出し、「ローマ・ミサ典書」を交付する。これによりローマのミサ典礼様式に従うラテン語によるローマ・ミサ典書が永久に有効なミサ聖祭として義務化される。これがいわゆる「トリエント・ミサ」である。(2)
1572年出版、ビクトリア(24)、女声4声のための第1モテット集
ローマで出版される。聖三位一体の大祝日のために作曲される。スペイン・ルネサンス宗教音楽の高峯ビクトリアは1565年からおよそ20年間ローマに過ごし、その後スペインへ戻り、マドリード近郊のレアレス修道院に楽長、オルガニスト兼司祭として赴任する。(2)
1575年出版、バード(32)、17曲のモテット集「カンツィオーネ・サクレ」
タリスとともに出版する。1757年バードはかつての師であり、チャペル・ロイヤルの同僚となったトマス・タリスと共に、エリザベス1世から楽譜印刷と販売の21年間にわたる独占権が与えられ、このモテット集を最初に出版する。ウィリアム・バードはエリザベス王朝を代表する音楽家で、イギリス音楽の黄金時代を築きあげた巨匠で、ヘンリー8世からエリザベス1世に至るイギリス宗教改革の渦中に生きたが、バードの音楽はイギリスにおける最後のカトリック音楽となった。(2)
1576年、フィレンツェでカメラータ始まる。
カメラータ・フィオレンティーナはフィレンツェのパルディ伯の主唱により始まったサークルで、古代ギリシャ音楽のように美しく歌うことがテーマで、のちにオペラに発展していくレシタール・カンタンド(歌いながらの朗詠)やスティーレ・レチタティーヴォ(朗詠スタイル)が形作られた。(1)
1581年、パレストリーナ(56)、4声のモテトゥス「バビロンの川のほとりに」
ベネツィアで出版されたパレストリーナ・4声モテトゥス集第2巻に掲載される。わが国でも広く歌われている名曲。(2)
1581年、パレストリーナ(56)、4声のモテトゥス「谷川慕いて」
ベネツィアで出版されたパレストリーナ・4声モテトゥス集第2巻に掲載される。詩篇の第1節・・・谷川慕いて鹿のあえぐごとく、神よ、わが魂、御身を慕いこがる・・・(2)
1597年出版、ジョバンニ・ガブリエーリ(40?)、61曲のサクレ・シンフォニーエ第1集
ベネツィアのガルダーノ社から出版され、アウグスブルクのフッガー家の4兄弟に捧げられる。合唱モテット45曲、器楽カンツォン14曲、ソナタ2曲の61曲が掲載される。ジョバンニ・ガブリエーリは叔父のアンドレーアのあとを継いでベネツィアのサン・マルコ大聖堂のオルガン奏者を務めた作曲家で、いわゆるベネツィア楽派の協奏的、色彩的な音楽を推し進める。(2)
1602年出版、カッチーニ(52?)、マドリガーレとアリア曲集「新音楽」
ギリシャの音楽様式の復興を旗印にしたカメラータの模範的な成果として、また歌唱技術の最初の大規則書として出版される。(2)
1603年出版、モンテヴェルディ(36)5声の無伴奏マドリガーレ集・第4巻
第1巻から第4巻までのマドリガーレ集には82曲が記載されている。第4巻ではその表現は明らかに劇的要素に満ちていて、新しい第2の作法がはっきりと見て取れる。(2)
1607年2/24、モンテヴェルディ(39)、歌劇「オルフェオ」
マントヴァの公爵の宮殿で初演される。ストリッジョの台本によるモンテヴェルディの最初のオペラ「オルフェオ」では、器楽間奏曲(シンフォニア)、レチタティーヴォ、マドリガーレ風書法による合唱が交互に現れる。また、合唱の一部には舞踏を伴い、悲壮的なレチタティーヴォの多くがアリオーソとなって活気づくこと、楽器編成が多様なことなどが特徴となっている。(1)
1562年頃~1612年頃、バード(19~69)、フィリッツウィリアム・ヴァージナル曲集全297曲
ヴァージナルはグランド型のハープシコード。カトリックのバードは1605年にローマから英国へ帰国したが、その際、政治・宗教上の危険人物とみなされ、投獄され獄中の死を遂げた。しかし、バードは現在ではブリタニア音楽の父として敬愛されている。(2)
1618年5/23、30年戦争始まる。
30年戦争が始まる。翌年、皇帝の地位に着くことになる、カトリック教徒で自身がボヘミア王であったフェルディナンドは、プロテスタント族が優勢なボヘミアに2人の代官を送り込んだが、弾圧に反発した急進派の貴族が2人をプラハ王宮の窓から突き落とすという事件が発生し、これが30年戦争の引き金となった。神聖ローマ帝国皇帝となったフェルディナンド2世は、自分の領地に宗教的統一を押し付け、ドイツで帝国の権威を再構築しようとした。さらに、宗教戦争はフランス・ブルボン家およびネーデルランド連邦共和国とオーストリア・スペイン両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いとなり、全ヨーロッパの国々を巻き込む戦争となり、30年戦争は、ドイツの人口の20%を含む800万人の死者を出すヨーロッパ最大の宗教戦争となった。(2)
【参考文献】
1.ブノワ他著・岡田朋子訳・西洋音楽史年表(白水社)
2.最新名曲解説全集(音楽之友社)
3.菊池良生著、神聖ロー帝国(講談社)
SEAラボラトリ