音楽史年表記事編91.モーツァルトの歌劇「魔笛」(3)闇から光へ
1784年、モーツァルトは結社フリーメイスンに入団します。フリーメンスンは自由・平等・博愛、人道尊重、宗教上の自由、理想社会の実現を理念に掲げており、起源はイギリスの石工組合といわれ、プロイセン王のフリードリヒ2世、ワイマール大公、英国国王ジョージ3世など主にプロテスタントの著名な君主が加わっており、プロイセンのフリードリヒ2世を仇敵として生涯憎み続けた女帝マリア・テレジアが亡くなると、フリードリヒ2世を尊敬していた皇帝ヨーゼフ2世はプロイセンと講和し、啓蒙主義の改革を進めます。ヨーゼフ2世は結社フリーメイスンの活動を認め、自らフリーメイスンに入団し、農奴を開放したほか、宗教寛容令を発布し宗教の自由・平等を認め、その一方でカトリック教会における典礼ミサに制限を加えました。
モーツァルトがウィーンで活躍した晩年の10年間はヨーゼフ2世の革新政治のもとにあり、1790年ヨーゼフ2世が亡くなると、後継の皇帝となったヨーゼフ2世の弟のレオポルト2世は、ヨーゼフ2世の行き過ぎた改革を後戻りさせようとします。1791年、レオポルト2世のボヘミア王戴冠式がプラハで行われます。おそらくプラハの強い意向により、祝典オペラの作曲にはモーツァルトが推薦されます。選ばれた台本は時代に逆行し時代遅れともいうべき、ヨーゼフ2世の改革とは真逆の、皇帝を賛美するメタスタージョのオペラ・セリア「皇帝ティートの慈悲」でした。新皇帝レオポルト2世は、皇帝位につくとすぐに宮廷詩人のダ・ポンテを解雇しましたが、モーツァルトは宮廷作曲家の解任を免れ、今後は宮廷に忠誠を尽くすようにとのことで皇帝賛美の歌劇委嘱となったのでしょうか。
この時、モーツァルトは旅回りの一座を率いていたシカネーダーから、庶民が楽しめるオペラ作曲の依頼を受けていました。題材は闇からの脱出と太陽が輝く理想世界の実現をテーマとするドイツ語のオペラ「魔笛」です。
モーツァルトはこの「魔笛」で、自身の人生を振り返ったのではないかと思われます。作曲家としては自他ともに認める巨匠の域に達していたにもかかわらず、女帝マリア・テレジアには冷遇されます。マリア・テレジアの冷遇の原因はモーツァルト一家の西方大旅行の折に、マリア・テレジアが敵対していたプロイセンと同盟していたイギリスを訪問し、国王ジョージ2世を訪問し歓待されたことが許せなかったからと見られます。そして、イタリアのミラノのフェルディナンド公の婚礼祝賀オペラを大成功させたにもかかわらず、モーツァルトを宮廷音楽家として雇い入れようとしたフェルディナンド公にモーツァルトを侮辱する手紙を送り、マリア・テレジアのまわりの多くの寵臣もマリア・テレジアに従いました。しかし、マリア・テレジアの身近にいて状況を見ていた皇帝ヨーゼフ2世は、モーツァルトには全く非はなく女帝の身勝手な言いがかりであると見ていたようです。また、ヨーゼフ2世はプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬しており、女帝マリア・テレジアとは確執がありました。モーツァルトは第2回ウィーン訪問で、ヨーゼフ2世から歌劇「ラ・フィンタ・セプリーチェ」K.51作曲の依頼を受け、渾身の力を振り絞りオペラを完成させ、皇帝ヨーゼフ2世が上演日程を取り決めたにもかかわらず、おそらく女帝の圧力により上演は見送られます。この見返りとしてヨーゼフ2世はモーツァルトに孤児院聖堂の献堂式祝賀ミサ曲である孤児院ミサ曲ハ短調K.139の作曲を依頼し、このミサ曲の初演に臨席したヨーゼフ2世、フェルディナンド公、マクシミリアン公を大いに感激させ、これらの3人の太公子は以降モーツァルトを擁護して行きます。このとき、次男のレオポルトは亡くなった父親のフランツ・シュテファンのトスカーナ公の後を継いでイタリアのフィレンツェに赴任していましたので、状況のわからない皇帝レオポルト2世は女帝の遺志を継いでモーツァルトを冷遇したものと見られます。モーツァルトはこれまでのように、次のように仮想の配役を配し「魔笛」の作曲を進めたものと思われます・・・すなわち、夜の女王役には女帝マリア・テレジア、慈悲深い王ザラストロ役には皇帝ヨーゼフ2世を、庶民と宮廷をつなぐ道化役のパパゲーノには自身モーツァルトを、パパゲーナ役には妻のコンスタンツェを、そして、邪悪なムーア人のモノスタトス役にはあのザルツブルク大司教コロレドを・・・
皇帝ヨーゼフ2世は啓蒙主義の推進で知られます。日本語の「啓蒙」は分かりにくいのですが、英語では「Enlightenment」であり、光を当てる、あるいは開眼させるということを意味し、古い因習を捨て新しい理想社会を実現するということで、まさに「魔笛」のテーマと一致します。モーツァルトが加入した結社フリーメイスンの掲げる理念も、皇帝ヨーゼフ2世が推進した啓蒙主義そのものです。モーツァルトは「魔笛」に自身を冷遇した女帝マリア・テレジア、邪悪なコロレド大司教、一方の慈悲深い皇帝ヨーゼフ2世などを登場させ、これまでの人生を振り返るように作曲したように思えます。しかしながら自身は庶民の道化役としてパパゲーノ役を演じつつ、いずれの登場者をも「自由・平等・博愛」の精神で情感豊かに演じさせ、人生を締めくくったのでしょう。
【音楽史年表より】
1784年12/14、モーツァルト(28)
モーツァルト、フリーメイスンへ入会する。自由・平等・友愛を目指す思想的、精神的結社であるフリーメイソンのロッジが当時のウィーンには8つあり、モーツァルトはそのひとつ「慈善」に加わる。(1)
1785年2/11、ヨーゼフ・ハイドン(53)
フリーメイスンのロッジ「真の融和」に入会する。(2)
4/16作曲、モーツァルト(29)、リート「結社員の旅」K.468
ウィーンを訪れていた父レオポルトは4月初めにフリーメイスンに入会する。(1)
4/24初演、モーツァルト(29)、カンタータ「フリーメイスンの喜び」K.471
「真の融和」ロッジの分団長イグナツ・エードラー・フォン・ボルンが、皇帝ヨーゼフ2世によって「帝国騎士」に叙せられた栄誉を祝して演奏される。(1)
12月作曲、モーツァルト(29)、フリーメイスン分団の開会に寄せる合唱付きリート「親しき友よ、今日こそ」K.483
1785年12/11、皇帝ヨーゼフ2世はウィーンの8つのフリーメイスン分団を2つに統合する命令を出す。モーツァルトが所属するロッジ「慈善」は「新戴冠した希望」となる。この新統合で同じ分団となった「後宮からの誘拐」でベルモンテを歌ったアーダムベルガーのテノール独唱によりK.484、K.483が演奏される。(1)
12月作曲、モーツァルト(29)、フリーメイスン分団の閉会に寄せる合唱付きリート「汝ら、われらが新しき指導者よ」K.484、(1)
1790年2/20、モーツァルト(34)
神聖ローマ帝国皇帝ヨーゼフ2世死去する。(1)
3月、モーツァルト(34)
ヨーゼフ2世の弟にあたるトスカーナ大公レオポルトが兄の帝位を継承すべくウィーンに入る。レオポルト大公はこの年の秋に正式に帝位に就き、皇帝レオポルト2世となる。(3)
1791年3/7、モーツァルト(35)
モーツァルトは劇場興行師シカネーダーの勧めでドイツ語による歌劇作曲に同意し、歌劇「魔笛」の作曲を開始する。(1)
7月~12/4、モーツァルト(35)、レクイエム ニ短調K.626(未完)
ウィーンのフランツ・ヴァルゼック・フォン・シュトゥパハ伯爵からの作曲依頼による。ヴァルゼック伯爵は1791年2月の夫人の死に際し、それを弔うミサ曲レクイエムを自作と称して奉献することを思い立ち、モーツァルトはその代作者として指名される。(1)
7月末、モーツァルト(35)
前年新たに神聖ローマ皇帝に即位したレオポルト2世がプラハでボヘミア王としての戴冠式が予定されており、この祝典オペラとしてモーツァルトはプラハの劇場から歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621の作曲の依頼を受ける。台本は半世紀前から繰り返しオペラ化されてきた宮廷詩人メタスタージョのものであった。作曲で多忙なモーツァルトはレチタティーヴォの作曲を弟子のジュースマイヤーに任せる。(1)
9/6、モーツァルト(35)、歌劇「皇帝ティートの慈悲」K.621
プラハの国民劇場で初演される。近年になってこの「ティートの慈悲」の評価は見直しのムードにある。そして、その結果として従来考えられていたよりはずっと良い作品だと認められるようになった。光と影の対照から成る魅力的な序曲は、明らかに10年後のベートーヴェンの「プロメテウスの創造物」の序曲のモデルとなるものであるが、シンフォニックな書法の見本のような傑作であり、いつの時代にも広い人気に支えられている。しかしそれ以上に、たとえば第1幕の終りのコーラスは背筋の凍るようなすさまじい力を持っていないだろうか。あるいは第2幕で使われる行進曲は史上に残るすぐれた行進曲ではないだろうか。そして第2幕のフィナーレもまた「魔笛」のそれに匹敵するような大きさと深さを持ったフィナーレである。(4)
9/30、モーツァルト(35)、歌劇「魔笛」K.620
ウィーンのアウフ・デア・ヴィーデン劇場においてモーツァルトの指揮で初演される。2幕のドイツ語オペラ(ジングシュピール)、ヨハン・エマヌエル・シカネーダーの台本による。モーツァルトが最後に完成した作品で、この世紀のみならず全オペラ史を通じた最高峰に位置する曲の一つ。モーツァルトとシカネーダーはザルツブルク時代から交流があったが、この年の3月にシカネーダーがウィーンを拠点にしたことからシカネーダーが台本を書いたオペラの作曲を依頼される。(1)
10月初め作曲、モーツァルト(35)、クラリネット協奏曲イ長調K.622
モーツァルトがクラリネットのために書いた唯一の協奏曲であるこの曲は、ウィーンの宮廷楽団に仕えるクラリネットの名手で、モーツァルトと同じフリーメンスン結社員でもあったアントーン・シュタードラーのために作曲された。モーツァルトのみならず古典派の管楽器のための協奏曲の最高傑作として親しまれている。(1)
11/17初演、モーツァルト(35)、フリーメイスンのための小カンタータ「われらがよろこびを高らかに告げよ」K.623
モーツァルトが所属していたフリーメイソンのロッジ「新戴冠した希望」の式典で自らの指揮で初演する。モーツァルトはこの式典の指揮で体力を使い果たしてしまったらしく、同月20日頃から病床に伏すようになる。(3)
12/5、モーツァルト(35)
モーツァルト、死去する。(1)
【参考文献】
1.モーツァルト事典(東京書籍)
2.作曲家別名曲解説ライブラリー・ハイドン(音楽之友社)
3.西川尚久著・作曲家・人と作品シリーズ モーツァルト(音楽之友社)
4.R・ランドン著、石井宏訳・モーツァルト(中央公論新社)
SEAラボラトリ
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