音楽史年表記事編45.ベートーヴェン、交響曲第4番変ロ長調
ベートーヴェンの交響曲第4番の演奏はたいへん難しく、アマチュアのオーケストラではまず取り上げられないでしょう。この交響曲の作曲の動機はよくわかっていませんが、曲がオッペルスドルフ伯爵に献呈されているところから、オッペルスドルフ伯爵からの依頼で作曲された可能性があります。ベートーヴェンは交響曲第4番を作曲した1806年の8月末にリヒノフスキー侯爵と共にシレジアを訪問し、その地でオッペルスドルフ伯爵家を訪問し交響曲第2番の演奏で歓迎されます。ここで伯爵から新しい交響曲の作曲を依頼されたことは事実であるにしても、新しい交響曲の構想はそれ以前からあったとみられます。ヨゼフィーネとの再会、ヨゼフィーネのための歌劇「フィデリオ」の不首尾、そしてベートーヴェンがヨゼフィーネとの愛の勝利を願っていたことを考えると、ベートーヴェンが「歌劇の代わりとなる夫婦の愛の勝利を願った3曲セットの交響曲」を作曲したという仮説の可能性はあるのではないでしょうか。
また、ベートーヴェンがハイドン、モーツァルトの3曲セットの交響曲の様式で中期の3曲の交響曲を作曲したことは明らかです。すなわち、交響曲第4番変ロ長調Op.60、交響曲第6番ニ長調「田園」Op.68、交響曲第5番ハ短調「運命」Op.67の3曲の交響曲です。3曲セットの交響曲の特徴は、(1)急-緩-急の性格を持つ3つの交響曲で構成され、(2)最初の交響曲は長大な序奏を伴い、2曲目、3曲目の交響曲は簡素な序奏で始まり、(3)3曲目の交響曲は壮大なフィナーレで終わることです。ハイドンの交響曲第6番ニ長調「朝」、交響曲第7番ハ長調「昼」、交響曲第8番ト長調「晩」の3曲の交響曲で原型が試みられ、モーツァルトの後期3大交響曲である交響曲第39番変ホ長調K.543、交響曲第40番ト短調K.550、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551は3曲セットの交響曲の様式で作曲されています。
ベートーヴェンの交響曲第4番変ロ長調は、ヨゼフィーネのための3曲セットの交響曲の第1曲であり、長大な序奏を伴います。序奏では地底から湧き上がるマグマのようにヨゼフィーネへの愛が芽生え、そして大噴火を起こします。ヨゼフィーネとの語らいなどを通じてヨゼフィーネへの愛は確固としたものとなります。ベートーヴェンは交響曲で自身のヨゼフィーネへの愛の芽生えと高まりを表現したのではないかと考えられます。
【音楽史年表より】
1806年8月末~10月末、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵の現在のチェコ領シレジアのグレーツの居城に滞在する。(1)
9月頃、ベートーヴェン(35)
ベートーヴェン、リヒノフスキー侯爵と共にオーバーグロガウという町に居城を持つフランツ・フォン・オッペルスドルフ伯爵を訪ねる。滞在中に交響曲第2番ニ長調Op.36が演奏される。ベートーヴェンは後にオッペルスドルフ伯爵に交響曲第4番変ロ長調Op.60を献呈することになる。(1)
11月中旬までに作曲、ベートーヴェン(35)、交響曲第4番変ロ長調Op.60
第4交響曲を完成する。この交響曲はフランツ・フォン・オッペルスドルフ伯爵に献呈される。(1)
1807年3月私的初演、ベートーヴェン(36)、交響曲第4番変ロ長調Op.60
ウィーンのロプコヴィッツ侯爵邸で行われた演奏会で私的に初演される。後にシューマンはこの曲を北国の2人の巨人(交響曲第3番と第5番)に挟まれた清楚可憐なギリシャの乙女と評する。ベートーヴェンは交響曲第2番を愛好するオッペルスドルフ伯爵の依頼で書かれたため、オーケストラ編成を英雄交響曲より縮小しているが、ベートーヴェンの常に旧作を凌ぐ規模と革新的拡大、表現力の増強を見せてきた聴衆にとって、期待を裏切ったのかもしれない。おそらくこの作品は交響曲第2番の後に来る2つの発展的方向の一つの路線を示すものであり、英雄交響曲があらゆる意味での拡大という方向での革新路線を選んだのに対し、第2交響曲の延長路線上での大躍進を示したのであろう。(1)
11/15公開初演、ベートーヴェン(36)、交響曲第4番変ロ長調Op.60
ウィーンのブルク劇場で行われた慈善演奏会で公開初演される。(1)
【参考文献】
1.ベートーヴェン事典(東京書籍)
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