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音楽史年表記事編74.ウィーンのモーツァルトハウス

 ウィーンでフリーランスの音楽家として独り立ちしたモーツァルトは、順調に演奏活動、作曲活動を行い、またウェーバー家の3女コンスタンツェと婚礼を挙げ、1783年3/23には宮廷に隣接するブルク劇場で自身の作品のみによる自主演奏会を行い、一晩で1600フローリン(約1600万円)の収入を得ます。臨席した皇帝ヨーゼフ2世からは祝い金として25ドカーテン(約112万円)が贈られますが、これは皇帝からの結婚祝いであった可能性もあります。そして、1784年9/29にはドームガッセの高級住宅に引っ越しし約2年半の間暮らします。この建物はモーツァルトが実際に居住した住居跡として、ここで歌劇「フィガロの結婚」が作曲されたところからフィガロハウスと呼ばれていましたが、2006年のモーツァルト生誕250年に全面改装され現在はモーツァルトハウスと呼ばれ、ウィーンを訪問したモーツァルトファンが訪れる博物館となっています。
 見学コースは吹き抜けを登り2階のモーツァルトの住居の台所のあった勝手口から入ります。音声案内によると使用人が3人いたとのことですので、おそらく2人の女中とひとりの下僕と見られます。1785年には父レオポルトが来訪し、また86年から約2年間、幼いヨハン・ネポムク・フンメルが寄宿しています。フンメルは間取り図の父レオポルトの部屋で寝起きし、2人の女中はフンメルの世話をしながら間取り図のフンメルの部屋で寝起きしていたのでしょうか。また、モーツァルトは1頭の馬を所有しており、毎朝アウガルテンやプラーターの公園を散策していましたので、下僕は1階の厩に寝起きし、馬の世話しながら水や薪の運搬も行っていたのでしょう。この時期のモーツァルトは恐らく年収2億円を稼いでいたともいわれ、貴族並みの優雅な生活を送っていたようです。モーツァルトは晩年、生活に困窮することになりますが、それでも2000万円程度の年収があったといわれ、生活が困窮してもコンスタンツェは女中1人を雇い、息子のカール・トーマスはお金のかかる寄宿学校に入れ、モーツァルト自身も社交は欠かさなかったようですから、困窮の原因は結婚当初の贅沢なドームガッセの住居での生活に慣れ切ったことにあったのではないかと思われます。
 さて、モーツァルトの住居に戻りますが、父レオポルトの部屋の隣のビリヤード台が置かれた広間に出ます。この広間でハイドンやデュッタースドルフ、ヴァンハルを招いて、音楽史における第1級の名曲であるハイドンに献呈された6曲のハイドン四重奏曲が初演されました。また、ウィーンを訪問した16歳のベートーヴェンがモーツァルトに会っていますが、この部屋であったと思われます。モーツァルトはこのモーツァルトハウスで、歌劇「フィガロの結婚」、クラヴィーア協奏曲第20番ニ短調K.466、クラヴィーア協奏曲第21番ハ長調K.467、クラヴィーア協奏曲第22番変ホ長調K.482、クラヴィーア協奏曲第23番イ長調K.488・・・、交響曲第38番ニ長調「プラハ」K.504、弦楽五重奏曲ハ長調K.515、弦楽五重奏曲ト短調K.516・・・など数々の傑作を生みだして行きます。

【音楽史年表より】
1782年8/4、モーツァルト(26)
モーツァルト、シュテファン大聖堂でコンスタンツェと婚礼を挙げる。(1)
12/31作曲、モーツァルト(26)、弦楽四重奏曲第14番ト長調K.387(ハイドン四重奏曲第1番)
1781年に作曲され1782年に出版されたハイドンのロシア四重奏曲を、モーツァルトはハイドンと共に演奏し、ソナタ形式の完成など全く新しい方法で作曲されたこれらの四重奏曲に圧倒され、ハイドンに献呈するために1785年までに6曲のハイドン四重奏曲を作曲することになる。これらの作曲には推敲が重ねられ、モーツァルトの最も輝かしい作品となったばかりではなく、後にベートーヴェンをも感嘆させた。モーツァルトはすでにこの1曲でハイドンの技術的な側面を完全に消化しており、ハイドンをして「まったくすぐれた作曲の技術」といわしめたモーツァルトの溢れるばかりの形式上の想像力は、4つの楽章に因襲的な表現を払拭してしまった個性的な相貎、そして全体に揺るぎない調和を与えている。(1)
1783年3/23、モーツァルト(27)
1783年の四旬節にモーツァルトはブルク劇場で自作品による演奏会を主催する。この演奏会には皇帝ヨーゼフ2世が臨席し大成功を収める。皇帝ヨーゼフ2世からは祝い金として25ドゥカーテン(約112フローリン、約112万円)が贈られるなど、モーツァルトは1夜で1600フローリン(約1600万円)の収入を得た。(2)
6月中旬作曲、モーツァルト(27)、弦楽四重奏曲第15番ニ短調K.421(ハイドン四重奏曲第2番)
4楽章のうち3楽章までがニ短調に統一され、ヘ長調の緩徐楽章もけっして明るくはない。前作のト長調K.387の躍動的な生命感情の対極というべき深い諦念が全楽章を支配しており、モーツァルトの短調作品の中でも最もペシミスティックな内容を持つ1曲に数えられている。自筆譜はロンドン大英博物館に所蔵される。この四重奏曲の内包する厳しさは必ずしも同時代者に理解されなかったようだ。たとえばジュゼッペ・サルティはこのニ短調K.421とハ長調K.465「不協和音」に関し痛烈に批判している。しかし、後年ハイドンはハイドンのために作曲したハイドン四重奏曲とレクイエムをモーツァルトが残した最高の音楽と述べ、また、現代においてはニ短調K.421を含めハイドン四重奏曲は室内楽曲の古今の最高峰に位置づけられている。(2)
6月か7月作曲、モーツァルト(27)、弦楽四重奏曲第16番変ホ長調K.428(ハイドン四重奏曲第3番)
この作品は入念な労作と内面的な表現への集中という点で前2作の圏内にあり、とりわけト長調K.387の大きな特徴をなしていたクロマティシズムは第1楽章そして特に第2楽章でロマン派の和声法を思わせるまでに進められている。その和声法はアーベルトが「トリスタンの響き」と名付けたようにロマン派の半音階的和声法を予言するものとなっている。その一方、後半の2楽章は民族的要素をとり入れたメヌエットとハイドン的なフィナーレに転じており、楽章構成は極めて変化に富んでいる。(1)
1784年9/29、モーツァルト(28)
モーツァルト、グローセ・シューラ―・シュトラッセ846番地(現シューラ―・シュトラッセ8番地、ドームガッセ5番地)の2階、現モーツァルトハウス(旧フィガロハウス)に移る。モーツァルトはこのドームガッセの高級住宅に約2年半住むことになるが、この時期年収はおそらく軽く1億円を超え、高額の家賃を支払い、2人のメイドと下僕を雇っていた。この間、まだ幼いフンメルを寄宿させクラヴィーアを教え、ハイドンに献呈した6曲のハイドン四重奏曲がハイドンと共に試演され、オペラ「フィガロの結婚」他多数の名曲が生まれる。また、16歳のベートーヴェンが訪れたのもこの住宅であった。(2)
11/9作曲、モーツァルト(28)、弦楽四重奏曲第17番変ロ長調「狩」K.458(ハイドン四重奏曲第4番)
ハイドン四重奏曲の最初の3曲がモーツァルトの内面へのまなざしに特徴づけられるとすれば、この四重奏曲ではモーツァルトの眼が同時代の趣味と理解力にも向けられているといえるだろう。最初の3曲の個性的な表出の主な要因となっていた半音階、鋭いデュナーミク、和声の複雑さは適度に抑制されており、表現の上でもハイドンを模範としていることが感じられる。とりわけ両端楽章にはハイドン的な性格が強く打ち出されているので、いうまでもなく相対的な意味においてだが、6曲の中で最もハイドン的な四重奏曲と評されている。(1)
1785年1/10作曲、モーツァルト(28)、弦楽四重奏曲第18番イ長調K.464(ハイドン四重奏曲第5番)
ベートーヴェンはとりわけこの四重奏曲を愛しており、作品18の作曲に先立って研究のために筆写したフィナーレの手稿楽譜が残されている。ソナタ形式による両端楽章が第1主題の圧倒的な支配で書かれているので、そうした点が構成主義者であるベートーヴェンに感銘を与えたのであろう。しかしながら、精緻な対位法によって織り上げられているにもかかわらず、堅苦しさは微塵もなく、むしろモーツァルトのイ長調に特有の夢想的に漂うかのような繊細なニュアンスに彩られた作品である。(1)
後にツェルニーはこう語っている、「あるときベートーヴェンが私の家でモーツァルトの四重奏曲6曲のスコアを見つけました。彼は第5番を開いてこういったのです・・これこそ作品というものだね・・と」。(3)
この曲は循環音楽の予兆的作品である。(4)
1/14作曲、モーツァルト(28)、弦楽四重奏曲第19番ハ長調「不協和音」K.465(ハイドン四重奏曲第6番)
前作のわずか4日後の1/14に完成された。モーツァルト後期の10曲の弦楽四重奏曲のなかで、序奏を持つのはこの1曲だけであるが、この序奏が冒頭から対斜や解決されない不協和音という大胆なというよりも理論的に間違った和声法に特徴づけられているところから不協和音四重奏曲(ディソナンツ・カルテット)あるいは対斜四重奏曲(クヴェールシュタント・カルテット)と呼ばれている。アーベルトも指摘するように調整感の確立すら危うい混沌とした響きを通って、堅固な構成にロマン的な憧れを秘めたアレグロに到達するという過程は、古典的な調和に至るまでのモーツァルトの内面の葛藤と努力の象徴的表現にほかならないのである。一連の四重奏曲を通じて和声表現の全領域を探求してきたモーツァルトはここで調整概念自体を表出的な意図に従えているといえるだろう。(1)
1/15、モーツァルト(28)
モーツァルト、ハイドンをドームガッセの自宅に招き「ハイドン四重奏曲」の前半3曲を披露する。第1バイオリンにディッタースドルフ、第2バイオリンをハイドン、チェロにはヴァンハル、そしてモーツァルトはビオラを演奏する。(2)
2/11、モーツァルト(29)
モーツァルトの父レオポルトがウィーンに到着する。(2)
2/11初演、モーツァルト(29)、クラヴィーア協奏曲第20番ニ短調K.466
市の集会場メールグルーベで催された四旬節の第1回予約演奏会でモーツァルト自身のクラヴィーア独奏で初演される。演奏会の当日ウィーンに到着した父レオポルトの姉ナンネルへ宛てた書簡によると、写譜が間に合わず、最終楽章は通して弾いてみる余裕もなかった。(2)
2/12、モーツァルト(29)
モーツァルト、再びハイドンを自宅に招き「ハイドン四重奏曲」の後半3曲を演奏する。この日は前半3曲も演奏されたものとみられる。父レオポルトによれば、この時ハイドンは彼に向って次のように語ったという、「誠実な人間として神の御前に誓って申し上げますが、ご子息は私が名実ともども知っているもっとも偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです」。ハイドンとモーツァルトというこの2大作曲家の心温まる交流はハイドンがロンドンへ旅立つ1790年12月まで続くことになる。(2)
4/25、モーツァルト(29)
モーツァルトの父レオポルト、ウィーンを発ちザルツブツクへの帰途に着く。モーツァルトはウィーンの中心部から10kmほど離れたブルカードルフまで見送りに行ったが、これが父と子の永遠の別れとなった。(5)
1786年初め、モーツァルト(29)
幼いヨハン・ネポムク・フンメル(7)がモーツァルトの弟子となり、2年間モーツァルト家(現、ウィーンのモーツァルトハウス)に寄宿する。(2)

【参考文献】
1.作曲家別・名曲解説ライブラリー・モーツァルト(音楽之友社)
2.モーツァルト事典(東京書籍)
3.青木やよひ著・ベートーヴェンの生涯(平凡社)
4.ジャン=ヴィクトル・オカール著、武藤剛史訳・比類なきモーツァルト(白水社)
5.西川尚生著・作曲家・人と作品シリーズ  モーツァルト(音楽之友社)

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